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没収された勲章 残ったのは「回収する必要のない」外国勲章のみ

 天岡は昭和4年11月9日付の官報で発表された特旨叙位15名のうち、3名の1人として従三位となった。当時、いかに未決中とはいえ、瀆職容疑で収容中の問題の人物の叙位だというので、時節柄注目されたが、事情を聞くと、彼は官を辞するとき、すでに位を進められることになっていたのが、後日発表の運びになったものだということであった。この問題の定期叙勲が獄中に達せられたとき、流石に彼は終日感泣していたとの事である。

 天岡は昭和9年9月28日、大審院刑事第二部菰淵裁判長から上告棄却の言渡を受け懲役2年(未決拘留100日通算)追徴金1万4250円の原審刑が、確定、これによって獄中に在って昇叙された問題の従三位も、位階令第八条第一項により、その位を失った旨が、同月30日の官報で宮内省宗扶寮から発表された。彼は翌10年10月11日夕刻淋しく下獄した。服役して10日目の同月21日、東京高検を訪れた十蔵寺弁護士の手を通じて、自分が今まで佩用していた勲二等瑞宝章、勲三等旭日中綬章、並に賞勲局総裁当時拝受した大礼記念章等16個の勲章を同検事局執行部に提出したが、イタリー、スペイン等の外国勲等については別に褫奪の適用がないので返された。

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満洲の剣道道場をたたみ「天岡総裁暗殺計画」を画策した男も

 天岡賞勲局総裁の勲章疑獄事件に憤然として、満洲で開いていた剣道の道場をたたみ、天岡総裁を殺害しようと上京した男があった。七生義団員武田事、藤田九万里といい、天岡の動静を窺ったが、彼の収容で計画は一頓挫を来した。ところが昭和5年2月27日保釈出所となったので、藤田は斬奸状を懐ろに短刀をのんでうろうろしているところを中野警察署員に捕ったのである。中村検事から殺人予備罪で起訴されたが、犯行の動機をきくと、同人はシベリア出征の功により勲八等に叙され大喜びであったところ、天岡賞勲局総裁らの勲章疑獄が発生して痛憤やる方なく、ひと思いに天岡を刺殺しようと狙ったものであった。

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 豊多摩刑務所で服役中だった天岡直嘉は、昭和11年10月27日、1年振りで仮出所した。五私鉄疑獄事件の小川平吉とは併合審理で、一審以来被告席を同じくして来たが、小川らは一審無罪、二審は逆に有罪となった。上告審では、昭和9年9月28日大審院菰淵裁判長から、小川元鉄相らの五私鉄事件のみに対して事実審理開始の中間判決があり、天岡らの勲章疑獄事件は上告棄却となって、同じ法廷に明暗2つの模様が描き出された。小川らは一審無罪の判決が言渡されたとき以上の喜びようであり、そのざわめきのうちに天岡はいつの間にか法廷から姿を消していた。彼は1人淋しく下獄した。そして一応罪の償いを終って更生の日を迎えた。

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
※掲載された著作について再掲載許諾の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者やその転居先がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部までお申し出ください。