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遂に捕まった2週間後、恩人・田中義一が急死

 天岡直嘉は賞勲局総裁になってからの昭和2年10月中、日活社長横田永之介と、ある人の紹介で交際を求められて相識ったが、横田は、自分が教育映画に貢献した故で、京都府知事から主務大臣に、御大礼に際しての表彰上申があったことを聞知し、天岡総裁の尽力によって叙勲の恩典に浴そうと欲し、昭和3年8月頃、麻布本村町の天岡邸を訪ねて、総裁として自己の権限内で尽力しよう、との約束を得たが、昭和3年11月10日勲五等に叙されたので大欣び、同月13、4日頃、京都岡崎法勝寺公園前の自分の別邸で、当時御大礼のため京都に出張、横田別邸に泊っていた天岡総裁に、謝礼として内祝名儀で金1000円を贈った。

 天岡直嘉はどこまでも悲劇的な人物であった。瀆職罪として当時の市ケ谷未決監に起訴収容されたのが昭和4年9月12日、それから僅か17日目の9月29日に、彼を失意のドン底から賞勲局総裁の顕職に就かせて呉れた恩人田中義一が頓死している。

天岡を賞勲局総裁に就かせた恩人・田中義一氏 ©文藝春秋

「八方から債鬼が迫り」売勲事件のあまりにも悲惨な後日談

 しかも彼が収容されたその同じ日に、東京府商工銀行から抵当権の執行を申立てられた。その物件というのが桂公の長女、輝子夫人と華燭の典を挙げたとき、岳父から結婚の引出ものとして贈られた平家建木造土蔵付三棟(62坪)と宅地(300坪)であった。これは天岡が在官中の大正13年、貯金魔吉川長之助に担がれて出来た借財の穴埋めに、東京府商工銀行丸の内支社から借りた2万円が支払えず、さらに1万円の利子さえ嵩んで3万円にもなり、その抵当に入っていたものだが、このほかにも在官中振出した手形の債権差押えが数件あり、売勲事件の余りにも悲惨な裏面を物語っている。当時天岡総裁の窮迫は非常なもので、ひとたび獄舎の人となった彼の麻布本村町144の本邸には、八方から債鬼が迫り、検事もその惨めさには同情していた。その“天岡御殿”は同年12月中に競売に付することに決定した。

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©iStock.com

 然し債権者側の人情味から、彼の保釈を俟ってからの執行にしようと延々になっていたが、さていつ未決を出られるものやら果てしがないというので、昭和5年2月13日正午から東京区裁判所で競売に付された。ところが正午近く江村判事係りでいよいよ競売を開始すると、一向に買手がつかず、やむを得ず一時延期して、改めて競売のやり直しということになった。

 この因縁付きの邸宅は4回の競売にも買手がつかず、同年3月11日第5回目の競売を行った結果、誰も買手が無いので、債権者東京府商工銀行ではついにあきらめ、最低価格2万4300円で自己競落をした。未決収容中に家までも取られた天岡は、163日目に当る昭和5年5月20日、市ケ谷の未決監を出て、麻布竜土町12の仮宅に淋しく帰った。

 彼は引かれて行く日、「人は裏面をみるとみな悪いことのある者なのだから決して裏面のことは考えず表面だけを見て暮せ」と家人に言い残したという。だが、諸疑獄連座の収容者中最後まで残され、酷寒の監房に悶々の日を送った天岡総裁は、小川鉄相と同じように、はじめは頑強であったが、最後には翻然悔悟したものか、罪は罪としてハキハキと自供した。当時は未決で、皮肉にも三・一五、四・一六事件などで検挙された共産党被告の独居房に挟まれた独居房の中で起居していた。