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援助を諦めかけていた人からの「叙勲表彰に尽力されたい」

 大同電力株式会社取締役増田次郎氏は天岡直嘉の岳父桂太郎の知遇をうけ、その邸に出入していたので、天岡とは、その頃から特に親しい間柄だった。桂太郎の歿後、増田は福沢桃介に起用されて、電気事業に携わるようになったが、たまたま天岡は増田の依頼で、大同電力会社と自分の知人の田中守平との間の紛争や、増田が取締役であった天竜川水力電気会社と、天竜川流域住民との間の紛争を調停したりして、その都度相当の謝礼を受けていた。

 こんな因縁関係から、天岡は昭和2年4月、破産宣告をうけての困窮中にも、鴫原亮暢を派し、財政上の救援を求めること数十回に及んだが、増田は僅かに数百円を与えたに過ぎなかった。これには流石の天岡も、増田からの援助を断念した。

 ところが、昭和3年4月、賞勲局総裁となった天岡が大阪からの帰途、車中で増田とひょっこり出会った。その時、増田は天岡に対して「大同電力の福沢桃介が近く電気事業界から隠退するから、その叙勲表彰に尽力されたい」と懇願した。天岡はすかさずこの機を捉えて、鴫原を使い、福沢の叙勲に尽力すべき旨を暗示して賄路を要求した。

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「それでは足らぬ」実業界の惑星・福沢桃介にも勲章を売りつける

 鴫原は数回足を運んだが、増田氏は遽かにはその要求に応じなかった。ところが、福沢挑介氏が隠退し、増田氏がその跡を襲って同社社長に就任した直後の昭和3年6月頃、福沢桃介がその筋の達しにより叙勲、表彰に関する履歴書および功績書を逓信省に提出したので、増田は福沢が叙勲表彰の恩典に浴すべきことを推知し、こんどは自分の方から態々賞勲局に出かけて行って、再度天岡にその叙勲に尽すべきことを請託、天岡はこれを引受けた。

 昭和3年9月29日福沢桃介は勲三等に叙せられ旭日中綬章を賜った。天岡は右叙勲に関し、10月上旬になって始めて増田から謝辞を述べられたので、当然の賄路はあるものと期待していたところ、その後、増田からは何の音沙汰もないので業を煮やし、「福沢氏の叙勲のために尽力したが……」と、鴫原をして執拗に、天岡に対する援助金を求めさせた。ついに増田はその要求を容れ、自分の恩人である福沢桃介の叙勲についての尽力に酬いるためのお礼として、500円だけ提供しようと約束したが、天岡は「それでは足らぬ」と、さらに鴫原を使って賄路増額の要求を出し、ついに貫徹、同月27日付、三菱銀行丸の内支店宛1000円の小切手を収受した。贈賄者側の増田氏はこの事件で不起訴となっている。福沢諭吉の養子であり実業界の惑星福沢桃介翁は昭和13年2月5日71歳で死亡、増田氏も昭和26年1月15日、82歳という高齢で逝った。

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