嘗てゴム人形と呼ばれた外相内田康哉伯をして満洲事変勃発するや国内の反対派説得にあたらしめた旧関東軍参謀の手記!!
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「満州事変の舞台裏」(解説を読む)
長い年月に亙る中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満洲全土に亙る侮日。日露戦争以来満洲在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続き此の儘ではとても収まるまいとは国民の勘で想像されて居た。
昭和6年9月18日夜勃発した満洲事変に日本国民の血潮が湧き立ったのは当然であった。
特に満洲在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激其の極に達した事は現地に居た当時の者でなくては一寸想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、此の際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起った現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響き亙り奉天に出動して居る関東軍司令部へは非常な激励が続いた。
満鉄理事以上の重役は傍観的、無為無策の態度
兵力移動の輸送に任ずる満鉄鉄道部の現地職員の張り切り方は軍隊と競争であり、大連本社の職員の各種専門家連中も大連を飛び出して軍司令部へ来て何でも御手伝をすると各人非常な意気込である。我々軍の参謀連中も之には感激させられて不眠不休懸命の努力を自ら誓った。日本に於ける時の民政党政府若槻内閣は幣原外相、井上蔵相の宥和政策に押され、南陸相、安達内相の強硬主張と対立し、閣内不統一の状態を続け、若槻総理には之を一に纏める力がなかった。外相からは満鉄に対して「事件不拡大、武力行使停止の考だから満鉄は関東軍と一緒になって事件進展を図らぬ様静観せよ」との電報があり、満鉄理事以上の重役は無風地帯の大連で傍観的の無為無策の態度を採った。
元々鉄道の警備、満鉄マンを含む在満日本人の生命財産の保護から端を発した事変に満鉄首脳部の此態度を軍司令部内では不快に思い、一般居留民は憤慨して居た。
誰が云い出したか忘れたが一つ内田総裁を奉天に引張り出し、大に軍司令官以下と現在及将来に関し胸襟を開いて協議させ様ではないかと云う事となり、非公式に之を大連本社の者に伝えた。