暴力で来る相手には力で当らねばならぬ
暴力で来る相手には力で当らねばならぬ。これが事件勃発するや大河の決する勢で敵に押しかかったのだ。
而も予後備兵を動員する事なく、常備兵で編成された戦闘部隊であるから、将校と下士官兵との間には、教官即ち指揮官と云う親しみがあり精鋭度が高かった。又国家としても動員費が入らず、糧食、弾薬の運搬も、親日支那人が引き受けた。機関銃や、馬や、弾薬や、小銃や迫撃砲も鹵獲兵器のみで補充し、日本内地からの輸送は全くなかった。こんな手軽な戦争は外国人や素人には一寸分り兼ねるであろう。一且矢が弦を離れた以上、日本政府の幣原外相や井上蔵相や若槻総理は何を危んで躊躇して居たのか。
内田康哉伯は奉天に住む日露戦争以来の老居留民や外務省出先官や有志の人々と会って3日の後出発、上京の途についた。
伯爵からは屢々電報による激励がなされ、
「幣原其他に会った、遠き慮の策案がない、諸君の意志を抂げず邁進せられよ、途は自ら開ける」と逆に促されもした。伯は陸軍省、参謀本部の首脳者にも会い、対満強硬策を述べ、現関東軍を制肘するな、と烈しく進言した。政治家に対しては日本民族発展の好機を逸する勿れ、と論じ、枢府の老人に対しては積極的に政府を鞭達せよと唱えた。陸軍省、参謀本部の若い連中は100万の味方を得たりと喜んだ。
「ゴム人形がそんなになられたか」
天皇陛下及皇太后陛下には別々に拝謁御下問があった由。全国到る処の国民大会は若槻内閣打倒、満洲事変完遂、外国怖るるに足らずを絶叫決議して内閣に迫った為、若槻民政党内閣はつぶれ、後継内閣たる犬養政友会内閣に外務大臣として伯爵内田康哉の名が連ねられ、昭和7年春には日本国は新興満洲国を承諾した。
満洲事変初期において国策長く決定せず、対内的にも対外的にも過渡的混乱期があったが此際に於ける満鉄総裁内田康哉伯の功績を知る人々が少ない。
後に筆者は松岡洋右氏に此の話をした所、「ゴム人形がそんなになられたか。余は余り傑出した人と思って居なかったが、国家の大事に臨んでの其認識、其信念は敬服すべく、賞讃すべきものであったと思う。
犬養内閣の外相としての強硬な主張、国際連盟のリットン調査団に対する応答、満洲国早期承認論など堅確な意思には驚ていたのだ」と滅多に人を褒めぬ松岡氏が感心して居た。
筆者は昭和10年政務班長として関東軍参謀に済南駐在武官から転任して行ったが、満洲国が内田康哉伯を表彰するのを事務当事者が失念して居たので是非表彰すべきだと主張した。満洲国政府は勲一位の勲章を伯の霊前に捧げた。
(元陸軍中将)
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