解説:病気か、プレッシャーか…… スター選手の投身自殺の謎
東京オリンピック・パラリンピックを来年に控えて、スポーツ競技の強化と代表選手の選考が続いている。中でもテニスは前回リオデジャネイロオリンピックで錦織圭選手が96年ぶりの銅メダルを獲得し、国民の注目を集めた。錦織選手が数々の記録を作る中で、往年のテニス選手の名前が何度も登場した。2012年、全豪オープンでベスト8入りした際は「佐藤次郎、布井良助以来80年ぶり」。2014年の全米オープンの2回戦で勝利して4大大会で32勝を記録すると「佐藤次郎が持っていた日本人男子記録(33勝)を更新した」。さらに、同大会でベスト4に進出すると、「4大大会では1933年ウィンブルドンの佐藤次郎以来81年ぶり」と騒がれた。錦織選手の活躍は、大昔の佐藤次郎選手の飛び抜けた活躍をあらためて世間に知らせることになった。
いまから80年以上前、世界ランク3位にまで上り詰めたテニスの国際的スタープレーヤーが、伝統の大会デビスカップ出場に向かう船から投身自殺したという事件は、スキャンダルとして当時の世間に大きな衝撃を与えた。「死を選んだ理由はナゾとされている」(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)ともいわれるが、実際はどうだったのだろう? この年(1934年)、のちに“幻の疑獄”とされる「帝人事件」が発覚。佐藤の死と同じ4月には、いまも東京・渋谷のシンボルである「忠犬ハチ公」の銅像が完成している。
「全国民の白熱的歓呼を浴びて西村、山岸、藤倉の三選手とともに去る三月二十三日、郵船箱根丸で神戸を出帆、欧州遠征の晴れの壮途にのぼったデヴィスカップ庭球選手佐藤次郎君(27)は午後三時にシンガポールを発航して航行中、同夕刻、同船がマラッカ海峡に差しかかった際、突如行方不明になった。数時間にわたって船内くまなく捜索したが見当たらず、同君の船室を調べた結果、自殺する旨の遺書を発見するに至ったので、覚悟の投身自殺を遂げたものと判明」。1934年4月7日付読売新聞夕刊はこう報じた。
記事はさらに、本編にも書かれている事情を紹介している。「同選手は乗船前から神経衰弱の気味であったのが、船中で重くなったので、四日シンガポール到着とともに下船して辞意を洩らし、五日出発の照国丸で帰国すべき手続きまでとったのであるが、同地での歓迎会席上における有志の熱心な勧告と庭球協会からの厳重なる訓電とによって遂に意を翻して再び乗船出発したものである」