兄・婚約者と協会で食い違う「自殺の背景」
東京朝日も4月7日付夕刊1面トップで「デ杯戦遠征の途上 佐藤選手自殺す マラッカ海峡で箱根丸から 遺書を残して投身」の見出しで大きく報じた。記事には佐藤選手と直前に婚約した女性とのツーショット写真も添えられている。東京日日も同様で「神経衰弱が昂じ 発作的に投身か」の見出しをとった。号外を出した新聞もあったほか、イギリス、アメリカなどの新聞も報道。外国のライバル選手が死を惜しむ談話を載せた。4月7日付朝日朝刊を見ると、本編にあるように、佐藤選手の兄・太郎が「(日本庭球)協会は今デ杯基金を募集中だから行ってくれと、金に関係して、協会の立場を第一義に、次郎の体を第二に取り扱ったのは甚だ残念です」と語っている。
協会側は全理事の意見として、「協会が多少無理勧めをしたという意見があるようだが、これは全然考えないことはなかった」と、“圧力”を完全には否定しなかった。ところが、文藝春秋発行の雑誌「話」同年6月号の「デ杯選手佐藤次郎君 自殺の真相」で、日本庭球協会の針重敬喜理事は「嫌がる佐藤君を、否応なしに強制的に出発させたなどという非難は、見当違いも甚だしいと言わねばならない」と強く否定した。同雑誌では太郎の文章も載っているが、協会批判は影を潜めている。代わりのように、本編にも登場する婚約者の女性が「出征した兵士でさえ、病気になれば帰国させられるのに、次郎はそれを許されなかった」と不満を漏らした。
彼が背負った『重圧』は競技スポーツによるものなのか
この時代、国際スポーツ大会は、個人競技であっても国威発揚の場とされ、競技者が「活躍できなければ、生きて故国に帰れない」という心境にまで追い込まれることがあったとされる。2015年に「至誠館大学研究紀要」に掲載された論文・岡部祐介「わが国における『競技者のアイデンティティ問題』言説の成立」は、サブタイトルが「テニスプレーヤー・佐藤次郎に着目して」で、1964年東京オリンピックの男子マラソンで銅メダルを獲得し、4年後に精神的重圧から自殺した円谷幸吉と比較して、佐藤のケースを論じている。
論文は「まとめ」で佐藤の死について、「『競技者のアイデンティティ問題』の萌芽的状況が確認された」としたものの、「庭球協会からの圧力や期待をひとりで背負わされたこと、国のために勝利を求められ、それが佐藤にとって精神的な重圧となっていたことが指摘されたが、それは佐藤の死後一時的なものであり、当時の諸説からは、彼が背負った『重圧』を競技スポーツによってもたらされるものとして読み取ることはできなかった」と結論づけた。それは、慢性的な胃腸病や「神経衰弱」、軽度の精神障害、過労など、個人的な要因を考慮したためだと考えられる。