「神武天皇っていうと、(存在を)疑われるんですよ」
美々津はとにかく、神武天皇に関係する伝承が多い。
神武天皇は、出航のときに着物の綻びに気づいた。だが、脱いで繕っている暇はない。そこで天皇は、立ったまま臣下に綻びを縫わせた。そのため、美々津は別名「立縫(たちぬい)の里」ともいう。
また「おきよ丸」は、沖合の黒島と八重島の間を通って旅立った。そして二度と帰らなかった。そのため、地元の漁師は験を担いでいまでもそのルートを避けるという。
観光案内してくれた地元のひとは、「神武天皇っていうと、(存在を)疑われるんですよ」と悲しげだったが、伝承としてであれば、こういった話もなかなか味わい深い。
実際、神武天皇といってもそこまで堅苦しいわけではない。
港近くの立磐神社には、神武天皇が腰を下ろしたとされる岩が大事そうに祀られている。ただ、近くにある日向市歴史民俗資料館には、この神社の鳥居近くに遊郭があったことを示す明治末から大正の写真が展示されてもいる。
遊女と巫女の境界が曖昧だった時代の名残だろうか。国家神道の時代のものとは思えない。このような緩さも、田舎町の風情と相まって観光客を楽しませてくれる。
八紘一宇の塔の弟「日本海軍発祥之地」
その立磐神社のすぐ近くに、変わった形の石塔が立っている。「日本海軍発祥之地」の碑がそれである。
日本軍は、天皇が統率する。だから、海軍の由来は神武の東征だ。その発想から、アジア太平洋戦争中の1942年9月、この記念碑が美々津に立てられた。文字は、首相、海相などを歴任した米内光政の書によった。その下には、やはり「おきよ丸」のミニチュアが備え付けられている。
制作した彫刻家の日名子実三は、宮崎市内にある「八紘之基柱」(1940年)や、「皇軍発祥之地」(1941年)のモニュメントでもよく知られている。つまり「日本海軍発祥之地」は、あの八紘一宇の塔の弟なのである。
「八紘之基柱」は、戦後に文字などが削られ、「平和の塔」と改称された。同じように「日本海軍発祥之地」も、戦後に碑文が破壊され、「平和の碑」などと呼ばれるようになった。ただ、1969年9月、「地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在の通り復元された」(案内板)。
この日は降ろされていたが、普段は隣接するポールに旭日旗が翩翻とひらめくという。ゆるやかな稜線を背景に、歴史的な建物が並ぶ町並みにあって、天に向かって雄々しくそそり立つ石塔は、帝国海軍の旭日昇天の勢いをいまに伝えながらも、やはり独特な印象を与えずにはおかなかった。