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宮本も義父も同じ大阪の逓信講習所で働いていた

 瀬戸内海の離島の出身だった宮本に対し、義父は秘境といわれた徳島県祖(い)谷(や)山(やま)の生まれである。若い頃、故郷から大阪に出た点も共通していた。

 それ以上に驚いたのは、宮本も義父も同じ大阪の逓信講習所で働いた経験をもっていたことだった。

 急増する電報の解読者を促成栽培する目的でつくられた逓信講習所は、卒業後各地の郵便局に配属されることを条件に、授業料、食費、寮費いずれも免除された。

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 逓信講習所に集まってきた少年たちは、田舎育ちで学校の成績はよいが、家が貧しいため上級学校へ進めない者たちばかりだった。

 ここではモールス信号を聞いて文字に直し、その文字をまた符号にしてモールス信号を叩くという特訓が昼夜を問わず行われた。

 その時代のことを振り返って義父が「あれは脳の三重奏だった」と苦悶の表情を浮かべて言ったことを覚えている。十代の壮健な少年でなければとてもつとまらない仕事だったのだろう。

 逓信講習所の同級生たちのほとんどが結核にかかって吐血し、若死にした。宮本はそう回想している。

 郵便局を早期退職し、小学校の教師になったところも宮本と義父は同じだった。またこの頃、民俗学に引き付けられたことも共通している。

渋沢栄一 ©文藝春秋

「没落するときはニコニコ笑いながら没落すればいい」

 宮本は大阪民俗談話会で渋沢敬三を知り、生涯の師と仰ぐことになる。東京の三田にあった渋沢敬三の豪邸に宮本は居候して、日本全国を巡り歩いた。

 その宮本を渋沢敬三は後に「わが食客は日本一」と回想している。渋沢敬三と宮本は理想的なパトロンとその恩恵を受ける貧乏学者の関係だった。

「日本資本主義の父」の渋沢栄一を祖父に持つ渋沢敬三は、日本の近代学問の発展に尽力した最大のパトロンだった。敬三が日本の学問発展に注いだ金は今なら百億円近くにのぼるといわれる。

 敬三は戦時中、東条英機になかば「強姦」される形で日銀副総裁に就任させられ、戦時費の捻出のため日銀券や赤字公債の無制限な発行を強要された。戦後は大蔵大臣になり、自ら創出した「財産税」捻出のため、三田の大豪邸を売り払い、便所もくみ取り式の三畳間の部屋に移り済んだ。それでも敬三は恬淡としたものだった。

 敬三がこの頃親しい仲間に呟いた有名な言葉がある。「没落するときはニコニコ笑いながら没落すればいい」。敬三は今ではとても考えられない「誇るべき日本人」だった。