「白地図に宮本が歩いた跡を赤インクで記すと、日本列島は真っ赤になる」
一方、私の義父は「日本民俗学の父」と呼ばれた柳田国男と文通を始めた。義父は私から言うのも口幅ったいが大変な美男子だった。
そこが弱点だったのか、宮本のように日本全国を歩く好奇心も体力もなかった。義父が残したのは祖谷の昔話集一冊だけだった。
これに対して“旅する巨人”と呼ばれた宮本は日本の津々浦々を歩き、その土地に伝わる貴重な話を記録した。
「白地図に宮本が歩いた跡を赤インクで記すと、日本列島は真っ赤になる」といわれたのはこのためである。
私があまり臆することなく見知らぬ土地を取材できるのも、宮本のおかげだと感謝している。
「忘れられた日本人」は、素晴らしい日本人だった
そうそう、ここで思い出したことがある。妻の従兄はマグロ船に乗って遠洋航海する船乗りだった。
その従兄が、水産学校の通信科に入ったとき、伯父にあたる義父からモールス信号の手ほどきを受けたことがあった。妻の話では、義父はうれしそうにモールス信号の打ち方を伝授していたそうである。
やがて遠洋航海の時代は終わり、従兄も陸にあがった。そして六十歳そこそこの若さでガンにより鬼籍に入った。
妻の話によると、いまわの際の従兄を見舞いに来た見知らぬ男がいたという。男は何もしゃべらず、従兄の手を取って指をしきりに動かしていたそうである。
そのとき妻は気がついた。二人はかつての船乗り仲間で、その頃の昔話をきっと二人にしかわからないモールス信号でかわしているに違いない。
このちょっとほろっとさせる話も、私にとっては極上の「忘れられた日本人」の物語である。
渋沢栄一はすっかり時の人となってしまった。だが、これを読む読者の方々には、巨人・栄一の陰には、いまや「忘れられた日本人」になってしまった感のある敬三や宮本という素晴らしい日本人がいたことを忘れないでほしいのである。