「東条の側近」と言われた、元中将・佐藤賢了とは
一方で国家総動員法については「国防に任ずる者は絶えず、備えのない平和というものは、これは幻ですよ。どうしても備えがなけりゃ、本当の備えがなければいけない。その備えを固めるためにも総動員法が必要なわけだったんです」と主張している。「私としてはね、ただ総動員法が議会を通ればいいというんじゃなしに、議会で政府と議員とが真剣に審議して、その議会の審議を通じて国民大衆に理解してもらいたい。国民大衆の理解なくして、総動員体制というものはできっこないんですね。私はそれを希望しておった」とも。
しかし、二・二六事件後の軍部と政府、議会の力関係を考えれば、元中将の言葉は「建前」としか受け取れない。それでいて、そうした軍部主導の結果、悲惨な敗戦に至った責任を問われると、「国民に大きな犠牲を払わせまして、誠に申し訳ないと、心からおわびいたしております」と頭を下げている(「証言 私の昭和史」)。
佐藤元中将は陸軍大学校在学中、兵学教官が東条英機・元首相で、卒業後の隊付将校の時、部下の入院費を借りた間柄だった(「東条英機と太平洋戦争」)。東条元首相が陸相から首相になる時期、陸軍省軍務課長と軍務局長を務め、「東条の側近」と呼ばれた。
「誠に率直で純粋」「なまじ白紙の非アメリカ通より害をなした」
昭和天皇の側近だった木戸幸一・元内大臣は東京裁判での国際検事局の尋問に、太平洋戦争開戦の年の1941年1月ごろのこととして、「陸軍の中心は軍務局、特に佐藤賢了軍務局長あたりでした」と証言。上法快男「陸軍省軍務局」も「誠に率直かつ純真、禅味のある大きな人物であった」と人物を絶賛している。
これに対し、秦郁彦「昭和史の軍人たち」は、「戦時中、東条を取り巻く連中は『三奸四愚』の名が高かった」とし、「“四愚”は、木村兵太郎(陸軍次官)、佐藤賢了、真田穣一郎(参謀本部作戦部長)、赤松貞雄(秘書)の4人だという」と書いている。大尉時代に2年間、アメリカに留学したが、「昭和18年3月になっても衆議院の決算委員会で『……大体米国将校の戦略戦術の知識は非常に乏しいのです。幼稚であります』と述べているぐらいで、誤ったアメリカ通は、なまじ白紙の非アメリカ通より害をなした」としている。