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「東条に協力」A級戦犯で東京裁判に出廷

 佐藤元中将は敗戦後の東京裁判でA級戦犯となったが、起訴された28人中最年少で、起訴状付属書でも「東条と協力」とされた。弁護人の判断で自らは法廷に立たず沈黙を通したことから、「黙れの佐藤、今や沈黙の人」(朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判」)、「『黙れ』がだまった」(読売法廷記者団編「25被告の表情」)と、ここでも過去の言動を引き合いに揶揄された。終身禁固刑を受け、1956年釈放。会社社長を務めながら、メディアにも登場した。

戦後の佐藤賢了(「佐藤賢了の証言」より)

政治的な思惑で動く軍人が多かったために悲劇が起こった

 ベトナム戦争でアメリカ軍が北爆を開始した1965年、月刊文藝春秋誌上で、かつての日中全面戦争と北部仏印進駐の「負の教訓」から「米国よ、小細工を弄せず、ベトナム施策の失敗を率直に認めて、黙って撤兵せよ」と提言して注目された。1975年2月、79歳で死去。戦後も「支那事変や太平洋戦争は、好まぬ戦争に日本が引きずり込まれたのである」(「東条英機と太平洋戦争」)と主張。昭和史研究者の間では評価は高くない。結局、画一的で不合理な軍人の視点からでしか戦争と国民を理解できなかったということだろう。

ベトナム戦争時は雑誌でこんな提言も(1965年の「文藝春秋」より)

 強気一辺倒の同調圧力の下、政治的な思惑で動く軍人が多かったのが昭和の国民の悲劇だったのかもしれない。

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本編「総動員法問答事件」を読む

【参考文献】 
▽久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六〇年」 朝日選書 1987年
▽東京12チャンネル報道部編「証言 私の昭和史(2)戦争への道」 學藝書林 1969年
▽鷹橋信夫「昭和世相流行語辞典」 旺文社 1986年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽佐藤賢了「佐藤賢了の証言」 芙蓉書房 1976年
▽佐藤賢了「東条英機と太平洋戦争」 文藝春秋 1960年
▽粟屋憲太郎ら編「東京裁判資料・木戸幸一尋問調書」 大月書店 1987年
▽上法快男「陸軍省軍務局」 芙蓉書房 1979年 
▽秦郁彦「昭和史の軍人たち」 文藝春秋 1982年
▽朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判」 講談社 1983年
▽読売法廷記者団編「25被告の表情」 労働文化社 1948年