谷川の光速流復活を告げた「伝説の妙手」
七冠ロードと同じくする羽生竜王・名人の推移を追うと以下のようになる。
1994年6月名人獲得(五冠達成)→94年12月竜王獲得(六冠)→95年3月王将挑戦失敗(七冠ならず)→95年5月名人防衛(六冠維持)→95年12月竜王防衛(六冠維持)→96年2月王将奪取(七冠達成)→96年6月名人防衛(七冠維持)
羽生の七冠は1996年7月の棋聖失冠で幕を閉じるが、それでも名実ともに棋界のトップに君臨していたことは間違いない。それに待ったをかけたのが谷川だ。自身が持っていたタイトルをことごとく羽生に奪われ七冠達成を間近で見せられた屈辱、それを払しょくしたのが1996年の第9期竜王戦である。
羽生先勝で迎えた第2局。そこで谷川が指した「△7七桂」という一着は将棋史に刻まれる妙手であり、また光速流復活を告げる狼煙でもあった。
竜王を4勝1敗で奪還し無冠を返上した谷川は、翌97年の第55期名人戦でも4勝2敗で羽生を破り、史上2人目の「竜王・名人」となった。この名人戦は谷川にとって「十七世名人」の資格も獲得することになる、記念すべきシリーズだった。
「半年前の無冠を思えば、夢のようです。(劣勢だった)5時間前を考えても、夢のようです」とは、第6局終局直後における谷川の談話である。
竜王戦で羽生を4勝0敗で破って……
谷川はその後、竜王を1期防衛したが、新名人に佐藤康光、新竜王に藤井猛が就いたこともあって、棋界はいよいよ羽生世代を中心に動いていくこととなる。その中でもやはり羽生は別格の存在だった。2001年に藤井から竜王を奪うと、2003年に森内俊之から名人も奪取し、再びの竜王・名人となった。この2003年5月の棋界勢力図はというと、羽生竜王・名人(王座・王将)、谷川王位、丸山忠久棋王、佐藤康光棋聖となっている。
後輩をみると、渡辺明が同年の王座挑戦に向けて着実に前進はしていたが、まだ一介の若手五段に過ぎず、中学1年の豊島は奨励会初段、藤井聡太に至ってはまだ生まれてから1年も経っていない。
同世代のライバルをたたいたこともあり、羽生の覇権が続くかに見えたが、それに待ったをかけたのが森内だ。自身初のタイトルだった名人を0勝4敗のストレートで奪われてから半年、2003年11月の第16期竜王戦で羽生を4勝0敗で破り、自身2期目のタイトルとなる竜王を獲得した。また羽生がタイトル戦でスイープを喫したのは、この竜王戦が初めてのことだった。
勢いに乗る森内は翌04年3月、第53期王将戦で羽生を下し王将奪取、そして2004年6月には前年に奪われた名人を4勝2敗で取り返すことに成功。史上7人目の三冠王に輝くとともに、竜王・名人という至高の地位に就いた。