鉄鍋と電熱コンロを買い、肉屋のオッサンに肉の薄切り法を教え、私は何はさておき町の日本人留学生全員を招き、すき焼きパーティを催した。居間の擦り切れた絨毯に車座になってやった。日本料理屋はニューヨーク市に2軒しかなかった時代である。
これが好評だったので、元ルームメイトや町に立ち寄った日本人旅行者も招き、わが家は「日本大使館」を僭称するまでになった。すき焼きは週の定例と化し、おいおい常連ができた。その客の中に、誰の友人か同じ大学の学生ジョージがいた。他の米人客と違い、口数少なく物静かな青年だった。
ビールと食事の後で、各自が居間の好みの位置に座って談論風発する。そういうときジョージは、ソファの隅に掛け、日本語の会話も黙って聞いていた。話すのが嫌いではないようだが、要するに物静かである。
「どんな経歴の人なんだ」
「ロシア人だそうだよ。ブダペストに住んでいたが、一家で西側へ脱出したと聞いたことがあるなあ。家族でアメリカに移住したが両親は離婚し、ぼくは天涯孤独だよと言ったことがある」
日本人だけのとき、そういう会話があった。「ぼくのお祖父さんは音楽家だと言ったこともある」と思い出す者がいた。
「今度来たとき聞いてみよう」われわれはジョージという名を知っているだけで、誰も彼の姓を知らなかった。
次に来たとき、誰かが「ジョージ、きみのお祖父さんって何ていう人?」と訊いた。
「うん、スクリャービンというんだ」
これには驚いた。アレクサンドル・スクリャービン。私はその曲を聴いたことはないが、交響曲を色と組み合わせたり、ロシアの現代音楽に革命を起こした作曲家だとは知っている。
「凄い有名な人じゃないか。きみはまた、どうしてアメリカなんぞに流れてきたんだ」
問われてジョージはポツリポツリと語った。その日は少しだけ。次に来たときまた少し、といった語り方だった。それを繋ぎ合わせると、だいたい次のような身の上になる。