『アナと雪の女王』の社会現象的なヒットから早6年。続編の『アナと雪の女王2』が公開された。
「全てを解き放て!(Let it go!)」という力強い、フェミニズム的でもあった呼びかけが私たちの心をつかんだ前作の続編は、何を見せてくれるのか、期待に胸をはずませて劇場に足を運んだ。
しかし、私は何か釈然としない気持ちをかかえたまま劇場を後にしたことを告白せねばならない。エンターテインメントとしてつまらないということではない。『アナ雪2』は、『アナ雪』が積み残した問題から目をそらし、別の解決を提示していないか。悪く言えば真の問題をごまかしたのではないか、と感じられたのだ。
どういうことか。結論からのべておこう。『アナ雪2』は、確かにもうひとつの「フェミニズム的物語」となっている。それは広い意味でのエコロジカル・フェミニズム(エコフェミニズム)の物語である。
だが、それは白人中産階級的なフェミニズムの「疚(やま)しさ」を、エコロジーを利用することで解消するものにしかなっていない。前作の『アナ雪』が積み残した問題、つまり女性の「労働」の問題は、再び不問のままなのである。
どういうことか、解きほぐしていこう。
以下の議論では、物語の核心に触れるのでご注意いただきたい。映画を純粋に楽しみたい方は、先に映画館に足を運ぶことをお勧めする。
『アナ雪2』が探求する2つの「原罪」
『アナ雪2』は、前作の『アナ雪』の舞台設定の根源を探究する物語である。ひとつにはエルサの魔法の力の源。そしてアレンデール王国という国の過去に横たわる一種の「原罪」の探究だ。
アレンデール王国の秩序には2つの「原罪」がある。2つのものを抑圧し、忘却することで王国は今の姿を保っているのだ。ひとつは「先住民族」。もうひとつは「エコロジー」である。
エルサとアナの祖父は、王国の上流の森で聖霊の力を借りて暮らす先住民族「ノーサルドラ」と友好関係を結ぶために、森を流れる川にダムを建設して贈る。しかし、ダムの贈呈式の最中に争いが起きてしまい、森の聖霊の怒りを買う。聖霊の呪いで森は不思議な霧におおわれ、出ることも入ることもできなくなってしまう。そして、聖霊の力はアレンデール王国にさまざまな「自然災害」をもたらし始める。
細部は省くが、物語の解決は、アナによるダムの破壊である。エルサを失ったと思いこんだアナは、下流のアレンデール王国が濁流に呑まれてしまうことを分かっていながら、ダムを破壊する。それによって聖霊の呪いは解ける。
私はこの一連の流れを見ながら、強い既視感を覚えていた。同じパターンの物語を、私たちはかなり前に目にしている。