『ナウシカ』『魔女の宅急便』も「85年体制」の物語だ
私たちが新自由主義と呼び、ポストフェミニズム(文字どおりには「フェミニズム以後」の時代、もしくは「フェミニズム以後のフェミニズム」というべきか──専門的には、新自由主義的フェミニズム、企業フェミニズムといった呼称もある)と呼んでいるものの内実は、これなのだ。それは確かに女性を「活躍」させ、活躍する女性の理想像を示してみせる。だがその理想的な「活躍」の裏側で何が消去されているか、それを私たちは考えなくてはならないのだ。
『風の谷のナウシカ』(映画版1984年)または『魔女の宅急便』(1989年)のような作品は、基本的に「85年体制」の物語だといえる。主婦とキャリアウーマンという偽の対立を提示した『アナ雪』もまたその延長線上にある。これらの作品からは、「社会進出」の名の下に非正規労働者として働くあまたのふつうの女性の経験は排除されている。
『アナ雪2』は確かに、二人の連帯と王国の秩序が排除してきた要素に目を向ける。原住民族とエコロジーという、いかにもアメリカ的な原罪の物語の要素に。だがそれが、二人の連帯から排除される女たちに向かわない限りは、白人中産階級フェミニズムの政治的な「疚(やま)しさ」の解消以外のなにかにはならないだろう。
アナによるダム破壊が反官僚主義的である理由
そして最後にして最大の問題は、アナとエルサが先住民族と自然を解放する主体になる瞬間に、女性とフェミニズムの問題が解決されたことになっているということだ。これは、ナウシカが救済をもたらす「母」的な属性を与えられたことにも通底する問題だ。簡単に言えば、彼女たちは男たちに責任のあるはずの問題を解決する理想的な、強い主体を与えられている。
そのような主体は、「新自由主義」の想像領域の中で組み上げられる。その点が、二つの作品のもっとも本質的な共通点だ。上記の理想的な女性主体は、非効率的な官僚制度に独力で対抗するような、英雄的──そして新自由主義的──女性主体なのである(※2)。
ナウシカの「墓所」破壊は、旧人類による「計画」を官僚主義的で社会主義的なものとして退け、それを破壊したところに現れる「自然状態」(それは国家の計画・統制を取り払った「市場」に似ている)を礼賛する、新自由主義的な感情に基づいている。『アナ雪2』に目を向ければ、ダムへの反対は、一方ではリベラル左翼的なエコロジー運動でありつつ、もう一方では官僚主義/福祉国家に反対する新自由主義的な運動でもあることを、アナの行為は彷彿とさせる。