そうではないと私は考える。それどころか、先住民族やエコロジーへの意識は、『アナ雪2』のフェミニズムにある種の安全な政治的な正しさを付与しつつ、じつのところ前作『アナ雪』で積み残された問題をごまかすものでしかないのではないか。
『アナ雪2』が排除したもの
その問題とは何かについては、詳しくは拙著『戦う姫、働く少女』を参照していただきたいが、ここでは無理を承知で簡潔に議論をまとめてみる。
『アナと雪の女王』は、フェミニズム的な物語だった。アナとエルサは、それぞれ「主婦を夢見てしまう時代遅れな人」と、それを否定する、「グローバルに活躍するキャリアウーマン」に相当する。「運命の人」との結婚を夢見るという、ディズニー自身が『白雪姫』以来確立した物語(専業主婦の物語)は、エルサの拒絶とハンス王子というヴィランの存在によって否定される。一方のエルサの自由と孤独は、新自由主義の世界で勝ち抜いてガラスの天井を破った勝ち組女性の自由と孤独だ。
だが、『アナ雪』を現代のフェミニズム作品として評価する際に無視できない限界がある。『アナ雪』は主婦とキャリアウーマンを対立的に示し、その対立こそがフェミニズムの問題のすべてであるかのようにふるまったが、この二人の対立は、重要な第三項を排除しているのだ。その第三項とは、女性労働者たちである。
「家族の85年体制」と女性の貧困の関係
女性労働者たちとは、1980年代以降、労働が流動化していく中で、非正規労働者として労働市場にかり出されてきた女性たちだ。
このことは、1985年に日本で起きたことを考えると分かりやすい。1985年といえば男女雇用機会均等法が制定された年である。それは、女性の「社会進出」への道を、少なくとも形式的には開いた。
だが、1985年は、国民年金に第3号被保険者制度が設けられた年でもあった。第3号被保険者とは実質的にはサラリーマンの被扶養者であり、主婦のことである。これは、主婦のいる核家族の優遇制度であった。女性の「社会進出」を推奨しつつ押し止めようとする一見矛盾するこの2つの動きを補完するのが、同年の労働者派遣法である。
落合恵美子は、これによって女性たちがキャリアウーマン、主婦、そして非正規労働者へと分断されたと述べ、それを「家族の85年体制」と呼んでいる(※1)。
雇均法は名目であり、実際は、女性たちは当時の経済が要請した流動的な労働力、言ってみれば雇用の調整弁として労働市場に送り出された。この状況は基本的に変わっていないどころか、正規労働者と非正規労働者の格差が大きくなるにしたがって、女性の貧困はより深刻になって現在にいたっているのだ。