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いいと思った作品には作者の人柄しか残っていない

――人柄を滲ませようと思ったのはなぜですか。

本谷 自分が、他人が作った小説や映画や音楽、詩などでいいなと思ったものを後から思い返してみると、どこがよかったのか細かいことは思い出せないんですよ。その詩の何がよかったのかとか、どんな言葉がよかったとかではなく、結局作った人の人柄みたいなものしか残っていなくて。なんか、あの人こんな人なんだろうな、というざらっとした大きいものしか私の中に残らないんです。となった時に、小説も結局細かい次の展開をどうするかということよりも、自分の人柄をとにかく滲ませていくほうに気を使ったほうがいいんじゃないかと思ったんです。その人柄ってどうやって作っていくのかというと、もう生活の段階から。どんな生活をして、どういう人たちが周りにいて、どんなものを食べて、どんなものを見てとか、そういうところから作っていかなきゃと。だから作る作業はまず、日々のことから入りました。あとは私が140枚なら140枚、読ませられるための人柄になっていればいいだけの話だと思って。今回、具体的に滲ませようとしたのは、サンちゃんののらくらした部分であったり、怠惰に負けていく、流されていく感じですね。旦那さんの、とにかく楽をしたりというところも。そういうものに自分の意識がのればいいなと思っていました。

――本谷さんがのらくらしているなんて驚愕(笑)。

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本谷 そうですか(笑)。でも昔からものぐさではありましたね。おばあちゃんが家に遊びに来ても、お茶を出すのは妹で、私は寝てたりとか。両親からするとそれは疑いようがなく、「お前は昔からものぐさだったよ」って。

 東京に出てきて、ずいぶん忙しく活動をしていたので自分がそういう人間だったってことを忘れちゃっていたんですよね。今でも忙しかった頃の自分を思い出して、もっと動かなきゃとか、もっとちゃんとしなきゃとかというのは思うけれど。でも一方で「じゃあちゃんと動くって何? ちゃんとするって何?」って考えた時、作家にとってちゃんとするっていうのは、世間一般の時間の流れに巻き込まれないことなのかもしれないと。巻き込まれちゃうと、結局同じ視点でしかものが書けなくなっちゃう。やっぱりそこから一歩引いて違う場所に身を置いて、その状態がどう見えているか考える人も必要だと思うんです。作家の視点として、みんなと違う場所から物事を見てなきゃいけないかもねと思った時に、じゃあ時間の流れに巻き込まれないで、ダラダラしていることが本当はちゃんとしていることかもしれないよって、自己弁護しました(笑)。でもそのおかげで、今まで見えていたものが違うように見えてくるようになりましたし。

――だから『異類婚姻譚』が書けた、と。それと、これまでは自意識が肥大化したような女性主人公が多かったですよね。自分を肯定することに精いっぱいの子とか、とにかく自分のことを考えている。サンちゃんはそれが希薄です。先日別のインタビューで本谷さんご自身が「自分に飽きた」とおっしゃっていましたよね。それまでは自分の内面に目を向けて小説の題材を探していたけれども、今は外側に目を向けている、と。

本谷 ものを書こうとした時に、自分の中に強烈な体験があったり、どうしてもその呪縛から逃れられないような、原点となるような深い穴があったりという生き方をしていないことがずっとコンプレックスではあったんです。大きな挫折や大きな不幸もなく生きてきて。自分の中に小説の題材になる何かがない。そのことについて、自分の人生に対して否定的に思ったりしていました。

 じゃあ何もない人は小説を書けないのか、ということをずっと考えていたんです。それでようやく、多くの作家さんがとっくに気づいていることだけれど、何もないことを受け入れて、何もないところから書くということをしていかなきゃ駄目だよね、と思えるようになったんですよね。やっと、自分の中に何かあるかもしれないと思って内側を無駄に探すことをしなくなったんです。

 穴を探そうとしなくなったぶん、最初から、何もないところを地面にして集中して書けるんですよね。すると、私が生きて、ふと感じる日常ってすごく強靭だな、と思ったりするようになった。何か大事なことに気づいても、あっという間にそれも日常の中に取り込まれていく。だから出だしときっかけは、ふと思っただけのことにしたほうが書けるんです、最近は。誰もが思い浮かべたことがあるようなところから出発したほうがうまくいきます。

(2)に続く