――本谷さんはそもそも、なぜ小説を書き始めたのでしょう。劇団の活動を先にはじめて、そのあとから小説を書き始めたイメージもありますが、実は脚本と小説とを同時期に書き始めているんですよね。
本谷 家にワープロがあって、戯曲を書きながら小説を書いて、ほぼ同時に完成させました。戯曲のほうがちょっと早かったのかな。芝居の学校に行っていたんですが、東京の友達ってその学校の子しかいなかったので、書き上げたものを両方、学校の友達に読ませたんです。そしたらやっぱり演劇をしたい子だから、戯曲を面白がってくれて、みんなでやろうよという話になりました。小説のほうは、私はその子に最初に言われた言葉を今でもすごく憶えているんです。その時読ませたのは『ほんたにちゃん』(08年太田出版刊)だったんですけれど、それを読んで「本谷はもう小説書かないほうがいいよ」って(笑)。
――えっ。私『ほんたにちゃん』大好きなんですが!
本谷 たぶん小説を馬鹿にしていると思ったんじゃないかな。「もっと真剣に書きなよ」ってすごく怒られました。その子は今でも友達なんですが、たぶんそう言ったことは忘れていると思います(笑)。それでなんとなく小説はそこで終わっていたんです。また書こうとも思っていなかった。でも劇団が軌道に乗り始めてホームページを作った時に、「何かもうひとつコンテンツがほしい」と言われ、「じゃあ10回くらいに分けて載せちゃう?」と言って小説を掲載したのが編集者の目に留まって、という流れです。
――自分ではその時、小説家になりたいと思っていたんでしょうか。
本谷 思ってないですね。19歳で東京に出てきて、学校も1年で終わって。東京にいるのは親と2年の約束だったんですよ。だからあと1年で帰らなきゃいけなくて、でも何の目処もたたないまま学校を卒業しちゃって、何かしなきゃいけなくて。その時にあったのがワープロで、バイトしかしていない自分にとって本当に消去法で、できることは書くことしかなかったんです。それで何かしなきゃいけない、だから書く、書いたらその日書いた分だけ文字数がたまっていく。それがとにかくその時の自分にとっては唯一の救いでした。今日も500字なり1000字なりという生産的なことができた、よかった、みたいな。非生産的な時間を過ごすのが怖かったんです。だからその頃の私にとって書くというのはただ文字数を増やすことでした。小説を書きたいとか戯曲を書きたいということもなく、文字数を増やしたいという意識でした。
――最初に書いた小説が『ほんたにちゃん』なんですね。小説家デビュー作になる「江利子と絶対」(『江利子と絶対』所収、03年刊/のち講談社文庫)ではなく。
本谷 『ほんたにちゃん』は本当に19歳の時に書いたもので、あれが処女作です。その後に「群像増刊エクスタス」や「群像」に書かせてもらったのを先に本にしたので、順序が逆になっちゃうんですけれど。
――『ほんたにちゃん』はそれこそ何者かになりたい、人からなめられたくないという主人公の女の子の言動が痛くて笑わせますが、すごく切実さも立ち上ってくるんですよねえ。
本谷 あの頃、冷静に周りを見回して一番面白いものを書かなきゃと思った時に、自分が一番滑稽だったんですよね。このもがき苦しむ様が面白いから、それを書かなきゃと思って。