1ページ目から読む
2/4ページ目

存在感のない少女が人気者に。歌手に憧れる

 小学校5年生になったとき、父が転勤になって再び北海道に引っ越しました。今度は室蘭。都会っぽさがウケたのか、転校生がもの珍しかったのか、クラスの人気者になっちゃったんです(笑)。

 それまでの私はずっと存在感のない少女。3月生まれで体が小さいし、勉強にもついていけない。劣等感がすごくあったんです。誰ともしゃべらなかったし、友達も1人しかいなかった。でも、東京から室蘭に引っ越したら、たちまちファッションリーダー(笑)。昔はネットなんてないから情報もない。私が着る服がクラスメイトの間で流行っちゃうんです。

 時代は70年代初頭。子供だけど、ベルボトムジーンズをはいて、半袖のニットを重ね着するレイヤールックをよくしてました。髪型もマッシュルームカットをアレンジしてサイドが斜めに揃ったカタチを自分で考案して。それもクラスの女の子たちの間で流行しました。

ADVERTISEMENT

 ちょうどその頃、父がようやくステレオを買ったんです。大きなスピーカーのついた家具調ステレオ。そして、買ってきてくれたレコードが、カーペンターズとセルジオ・メンデスとミシェル・ポルナレフ。

 父は、当時流行っていた洋楽の中で、その3枚が気に入ったから私に買ってきてくれた、ただそれだけなんです。でもそれは偶然にも、後に「渋谷系」と呼ばれる音楽のルーツとなる3枚だった。ソフトロックにボサノヴァにフレンチポップ。そこで出会ったのは必然だったのかもしれません。

 歌謡曲以外の曲を聴いたのはそれが初めてで、世界にはいい音楽がたくさんあると知って、そこから洋楽に興味を持つようになりました。小学生だし英語もポルトガル語もフランス語もわからないけれど、レコードと一緒に歌いたくて、何度も繰り返し聴いては、片仮名で歌詞を書き起こして歌ってましたね。

野宮さんが何度も繰り返し聴いた3枚は、カーペンターズ『遙かなる影』、セルジオ・メンデスとブラジル‘66『マシュ・ケ・ナダ』、ミシェル・ポルナレフ『シェリーに口づけ』。‘60年代後半~‘70年代初頭にかけて世界中でヒットしていた。

 そして、歌手になりたいと思うようになりました。NHKの『ステージ101』(70年~74年放送の音楽バラエティ番組)に出たいと思ったんです。「ヤング101」という全国オーディションで選ばれたオリジナルグループが歌って踊る音楽番組なんですが、ビートルズやサイモン&ガーファンクルといった、洋楽を日本語詞でカバーすることが多かった。「私も『ヤング101』のメンバーになって、こんな曲をたくさん歌ってみたいなあ」って。

 そんな夢を抱くことができたのは、クラスのみんなが注目してくれたことで自分を変えることができたという部分も大きかったと思います。存在感のなかった少女がファッションを注目してもらうことで自信を持った。今でも衣装を着てメイクをすることで「野宮真貴になるスイッチ」を入れるのですが、洋服やメイクで人は変わることができると知ったのは、この頃の経験からきてると思います。