文芸誌の世界で洗練されることは、去勢され、ノイズがなくなることでもあった。『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』は去勢されていない。
――『「ワタクシハ」』の1年後、12年に『隠し事』を刊行された時、羽田さんなんか変わった、と思いましたよ。あれは恋人の携帯電話をこっそり見るという話なんですよね。
羽田 そうですね。『隠し事』はわりと純文学のリハビリの感覚だったんです。あれを書いてもらった感想が、『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』に繋がっていますね。『隠し事』は自分では、『黒冷水』よりも洗練されたものをやったつもりだったんです。でも、ある評論家の方から、「なんか文芸誌に染まった感じがする」と言われたんです。「『黒冷水』のほうがつたないけれども、書かれるべきノイズみたいなものがあった」って。その言葉は今でも自分の中に残っています。文芸誌の中で納まりがよくなるよう洗練させるのと、よく分からないノイズありきのエネルギー量で読ませるのと、どっちがいいんだろうというのが…。わりとその疑問が『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』に繋がっています。だから、『隠し事』を書いてその感想をもらったというのが大きかったんですよね。
――文芸誌に納まるものを書いたっていうのは、どういう感覚だったんでしょう。
羽田 昔の素人だった頃よりも、間違いを犯さないようになりつつ、なんか去勢される部分が確かにあったな、って。確かに自覚があったんです。『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』は去勢されていない感じです。だから編集部といつまでも延々と直しの方向性の議論を続けたりしたんですけれども。
――なるほど。では『隠し事』の後で『盗まれた顔』という、見当たり捜査官を主人公にした、大藪春彦賞の候補にもなるような警察小説を書いたのはどういう流れだったのでしょう。
羽田 警察小説を書いたというよりも、見当たり捜査というアナログなものがテーマにありました。自分が書きたいと思った職業の人が、たまたま警察だったので警察小説のカテゴリーに入ったなという感じです。
――指名手配犯たちの顔を憶えていて、雑踏の中で彼らを探す人たちですよね。私は『隠し事』や『盗まれた顔』あたりで羽田さんがエンタメ性を意識してきたなと思ったんです。
羽田 それもありましたね。その頃に書いたもので単行本になっていない中篇3つもエンタメ小説でした。職業作家として、淡々とやっていた時期ですかね。
この時期は辛かったというか。ある時、急に不安を感じました。これで一回病気をしたら、なんの手当もないまま貯金がなくなるな、って。作家って貧乏を感じた時にはもう遅いんですよ。貯金が少ないとなってから一生懸命原稿を書いても、雑誌に掲載されるのは最短で2、3か月後。そこからお金が振り込まれるまでさらに1、2か月かかる。これ、気を抜いたらあっという間に貯金がゼロになるぞと思ったんですよね。こんな不安定な職業はないと思いました。でも自宅最寄りの駅の書店に行っても文芸書コーナーがどんどん縮小されていて売れてる本しか置かれず、自分の本はもう数年間置かれていない。新作を出しても、文芸誌側が原稿料を渡して書いてもらった評論でしか取り上げられない。なんかもうどうしようもないなと思っていて。その時は辛かったですね。