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自信のなさや心の傷が作品を描かせてくれた──山岸凉子が“最初で最後の”トークショーで語ったこと

自信のなさや心の傷が作品を描かせてくれた──山岸凉子が“最初で最後の”トークショーで語ったこと

2020/02/16
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妹と反対で、私はぼんやりで気がきかない子だった

 妹さんのお話が出たところで、ご家族のことをもう少しうかがっていきたいのですが、ごきょうだいは年子の妹さんと2歳上のお兄さんがいらっしゃる。

山岸 妹とは2歳違うのですが、彼女は早生まれなので学年としては1年しか違わなくて、双子のように育ちました。

 似ていらっしゃったんですか。

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山岸 ものすごく似てました。おまけに妹は自我の強い子で、私のおさがりは絶対に嫌だと言うのです。それで私たち姉妹は常にちょっとだけ違う同じ服を着ていたので、はたから見たら、きっと双子のように見えていたかもしれない。私は、妹に「お姉ちゃん」と呼ばれたことはただの一度もなくて、妹は私を「凉子ちゃん」と呼んでいました。

 それって、抵抗はなかったんですか。

山岸 全然。妹とは本当に仲がよかったので、まったく気にしていませんでした。当時は妹の方がしっかりしていましたから「お姉ちゃん」と呼ばれたら、きっと気が重かったと思います。妹はとても気がつく子でしたけど、私は反対にぼんやりで、まったく気がきかない子だったのです。上砂川の伯母の家に行った時も、妹がさっと動いていると、母親が「あの子はホントに気がきくのよ」と喜んで、隣にいる私の方をチラッと見て「ホントにこの子はお尻が重くて」みたいに言うのを「ごもっとも」と思いながら聞いていました。

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 親戚の前できょうだいが比較されるというのはよくあることだと思うのですが、子どもながらに傷ついたりはしなかったんでしょうか。

山岸 当時はそういう自覚はなかったのですが、長ずるにつれて、母が言っていたことは、あの頃、女性に求められていたことで、それができない自分はやっぱりダメなのかなという自信のなさに繋がってしまったような気はします。でもそれは虐待とかそういうことでは、決してなかったんですよ。当時は今以上に男女の役割がハッキリ分かれていて「女の子はお嫁に行くのが当たり前」と思われていた時代なので、母もひたすらそれを信奉していただけなのですが、求められていた役割に応えることができなかったことで、自分自身でも気づかないうちに、ちょっとした傷になっていったんだな、とは思います。