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自信のなさや心の傷が作品を描かせてくれた──山岸凉子が“最初で最後の”トークショーで語ったこと

自信のなさや心の傷が作品を描かせてくれた──山岸凉子が“最初で最後の”トークショーで語ったこと

2020/02/16
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亡くなるまで「凉子が心配」と言っていた母

 そう考えると『アラベスク』を描くことで、子どもの頃に失った好きなものを、ふたつとも取り返したような感じがしてきます。

山岸 本当にそうかもしれませんね。漫画家になる決意をしたのも、すごい偶然がきっかけでした。妹が友達と遊びに行った時に「今、漫画って駅の売店で売ってるのよ」と『少女フレンド』を買ってきてくれたのです。それで本当に久しぶりに漫画を開いたら、そこに里中満智子さんのデビュー作『ピアの肖像』が載っていたのです。「十六歳のおねえさんが描いた漫画」というふうに書かれていて、私も同じ高校二年生でしたから、本当に衝撃を受けました。それまで漫画っていうのは、もっと年上のおじさんおばさんが描いているものと思っていたのが、自分と同じ年の人が描いているんだと初めて知って、自分にも何らかのかたちで描けるんじゃないかと思ったのが最初です。

 まさに運命的な出会いだったんですね。でもお母さまは大反対されたとか。

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山岸 私としては、これしかないという気持ちでまっしぐらに行くつもりでしたが、「そんなことではお嫁にいけない」というのが母の意見でした。当時、母は入院していて、亡くなる1年前くらいだったのですが、亡くなるまで、ずっと反対していましたね。のちに父から聞いたのですが、母は亡くなる時も「凉子のことが心配」と言っていたそうなんです。そんなに心配をかけておきながら、後でその事を聞かされた時も私は「なんて失礼な。私はちゃんとやってみせる」なんて思ってしまったりして。母の心配を汲んであげられない私でした。

©iStock.com

 心配する親の気持ちと自分の足で歩いていこうとする娘の気持ちと。お母さまの死によって、宿題のように残ってしまったものがあったのかもしれませんね。

山岸 解決できない問題というのが、自分の作品に反映しているところはあるかもしれません。自分では気づかずに描いていることですが。

漫画家になる、そう決めたら何も怖くなくなった

 それまで自信が持てずにいた少女が、誰に反対されようとやってみせると思ったのだから、漫画家になるというのは、そのくらい大きな転機だったということですよね。

山岸 自分でも、まるで砂漠に水がしみこむような気持ちがしました。私、すごい方向音痴なんですね。そう言うと、皆さん「私も方向音痴なんですよ」と言ってくださるのですが、私の方向音痴はちょっと尋常じゃないのです(苦笑)。今はもうスマホがある時代なのに、今から四国に行ってくださいと言われたら、きっと怖気づくと思います。それなのに、出版社に原稿を持ちこむために、北海道から東京に行ったあの時は、何ひとつ怖くなかったのですから、今から考えても不思議です。千歳から飛行機に乗って、右も左もわからない東京にやってきたというのに、何ひとつ恐れることなく、まっしぐらに進んで行くことができたのです。

 

このあとはいよいよ『アラベスク』『日出処の天子』の誕生秘話や、創作の秘密について語られます。「人間の山岸凉子は気が弱くてダメなのですが、漫画家の山岸凉子は、地獄のように自信に溢れている」
「明日死ぬと思って、生きろ。そして永遠に生きると思って学べ」(山岸さんが心にとめているガンジーの言葉)
など名言が満載のトークショー全文書き起こしは『自選作品集 ハトシェプスト 古代エジプト唯一人の女ファラオ』(文春文庫)にてお楽しみください。

自信のなさや心の傷が作品を描かせてくれた──山岸凉子が“最初で最後の”トークショーで語ったこと

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