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「津波太郎」と言われても離れることはできなかった――岩手・田老と津波の因縁

「津波太郎」と言われても離れることはできなかった――岩手・田老と津波の因縁

2020/03/03

genre : 読書, 歴史, 教育

note

「津波太郎(田老)」という名称

 高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられていたことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、防潮堤その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮していたと考えていい。その模範的な例が、岩手県下閉伊郡田老町にみられる。

 田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。

「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、潰滅的打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所と言われたほどだった。

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 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかったのだ。

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全長1350メートル、高さ最大7.7メートルの防潮堤

 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢をとった。

 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防となって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭和33年3月に至って全長1350メートル、上幅3メートル、根幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ10.65メートル)という類をみない大防潮堤を完成した。またその後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業として施行されている。

 この防潮堤の存在もあって、チリ津波の折には死者もなく家屋の被害もなかったのである。