海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみた
私も田老町を訪れた時、海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみた。堤は厚く、弧をえがいて海岸を長々とふちどっている。町の家並は防潮堤の内部に保護されて、海面から完全に遮断されている。町民の努力の結果なのだろうが、それは壮大な景観であった。
そのほか田老町では、避難道路も完成している。それまでの津波来襲時に、道路がせまいため住民の避難が思うようにゆかなかった苦い経験をもとに、広い避難道路を作ったのである。また避難所、防潮林、警報器などの設備も完備している。
寒さの厳しい深夜に行う、町をあげての津波避難訓練
ことに町をあげての津波避難訓練は、昭和8年3月3日の大津波来襲を記念して、毎年3月3日におこなわれている。それも、昭和8年の地震発生時刻の午前2時31分39秒(盛岡測候所記録)に津波襲来を予告するサイレンの吹鳴によって開始されるという徹底したものである。むろんそれは、寒さの厳しい深夜なのだが、住民は真剣な表情で凍てついた夜道を一斉に避難するのだ。
このような津波対策に積極的な田老町に、昭和43年5月16日、十勝沖地震による津波が襲来した。
その地震は、北海道襟裳岬の南々東120キロ、北緯40.7度、東経143.6度の海底を震源地とし、マグニチュード7・9という大規模なものだった。関東大震災の7・9をわずかに下廻り、昭和39年6月の新潟地震をしのぐ強烈な地震であった。
この地震は、三陸沿岸地方にも伝わり、その後津波の来襲を受けた。その折の田老町の住民は、訓練の成果を十分に発揮した。
午前9時49分、地震発生と同時に全町に対して避難命令が発せられた。津波は地震後襲来する可能性が高いので、早くも住民の避難が開始されたのである。また命令系統を一本化するため、あらかじめ定められた通り災害対策本部が設置された。
それから15分後、津波襲来の予想がたかまったので、本部は、津波警報を発令。それを告げるサイレンが、全町にひびきわたり、またスピーカーでその旨が放送された。