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材木に挟まった男性は、眼球が飛び出し口から舌を垂らしていた
震動がわずかに衰えた。かれは、柱から手をはなすと鮨屋横丁をぬけ出た。角に建っていた天ぷら屋が倒れ、1人の男が太い材木の下から顔だけを突き出していた。眼球が飛び出し、口から舌を垂らしていた。
政男は、初めて眼にする死者の顔に恐怖を感じた。思考力は失われていた。大地震が起ったのだということは意識できたが、どのようにしたらよいのかはわからなかった。
「瓢箪池へ逃げろ」
突然かれの耳に、
「瓢箪池(ひょうたんいけ)へ逃げろ」
という人の叫び声がきこえた。
その声に、かれは池の方向に走り出した。路面は粘液のように揺れつづけていて、足もとが宙をふむように心許なかった。ただかれは、潮田と手をにぎり合っていることに救いを感じていた。
瓢箪池近くに来た時、潮田の口から短い叫び声が起り、その眼が前方に注がれていた。
高さは73メートルもあろうかという凌雲閣は傾き……倒壊
政男は、その視線の方向に眼を向けた。前方には東京初の高層建築物といわれた十二階(凌雲閣・りょううんかく)が立っている。高さは220尺(73メートル弱)で、10階までが総煉瓦造り、11階と12階が木造の八角形の塔状建物であった。館内には絵画室、音楽演奏室、休憩室等があり、11階と12階には見料一銭の望遠鏡が設置され、雲を凌ぐ高層建築物として東京名物になっていた。
その凌雲閣の上部が傾いている。そして、中央からやや上方の部分が裂けると右方へ倒れていった。
揺れつづける足元に新たな地響きが伝わって、建物の倒壊音が鼓膜をふるわせた。その光景に、かれの足は萎(な)え、全身に激しい痙攣が起った。凌雲閣が、倒壊したのである。