「自由にやれよ構わぬとケンペイさんから通知あり」
東京日日の記事で金語楼は、1月に在郷軍人の前でしゃべったことから問題になったのでは、と語っている。その在郷軍人会の機関誌「戦友」に掲載され、軍事警察雑誌同年2月号に転載されたのが今村均陸軍少佐(のち大将)の「陸軍に関する世間の誤解」という文章。陸軍将校は決して非社交的でも非常識でもないと強調したうえで、軍隊教育について言及している。
「ことに軍隊の主眼とするところが規律節制、すなわち協同心の養成にありますので、小我の自由を欲してやまない人々に精神的苦痛を覚えしむることはどうしても避け得ないのであります」「壮丁の全部が例外なく軍隊は楽な所だというようになる日は」「むしろ、軍隊の堕落、軍隊の軟弱を意味することになるのであります」と強調している。
また金語楼は「あまたれ人生」で「私に言った同じこと、レコード会社に言ったので、発売禁止と間違えて、新聞記事で騒ぎ立て」「ある新聞に出た記事に“娯楽ものまで軍隊が取り上げてしまうことなかれ。国民へ返せ”というのが出た後は、自由にやれよ構わぬとケンペイさんから通知あり」とも書いている。
これらを総合すると、おおよその流れが分かる。ここからは筆者の推理になる。
軍事警察雑誌の「訪問記」は“手打ち”の証だったのか
金語楼は、所属した師団や連隊の長から勧められて兵隊落語を始めたとしているが、それなら、むしろ誇れることとしてほかでもそう語っていたはずだ。少なくとも戦後の著作やインタビューで明かさない理由はない。この動機の部分は記者、というより憲兵隊の創作だろう。
実際は、今村少佐が書いた軍国教育を支持する雰囲気が在郷軍人や憲兵の間に広がっていたときに、金語楼の兵隊落語を聞いた在郷軍人が「けしからん」と通報し、憲兵隊が金語楼を呼んで注意した、ということだったのではないか。
さらに、金語楼がかねてから接触のあった警察に持ち込んで、「陸軍VS警察」の対立が激化。東京日日も記事にしたことで反響が拡大し、慌てて陸軍が鎮静化を図ったのだろう。あるいは、記事になったことで「見せしめ」の効果は果たしたと考えたのか。その“手打ち”として、憲兵隊の対応について弁解し、金語楼を“ヨイショ”して格好をつけた証が軍事警察雑誌の「訪問記」だったのだろう。そう考えると、逆に金語楼もしたたかで、憲兵隊から「待った」をかけられたことを兵隊落語と自分の宣伝にしっかり利用している。