金語楼の落語が表現した「矛盾や理不尽さ」
その後も金語楼は各種の兵隊落語や、当時の「産めよ増やせよ」のスローガンに沿った「子宝部隊長」、「隣組」の重要性を訴えた「隣り組の奥さん」、貯蓄や債券購入、献金を奨励する「女夫(めおと)貯金」など、銃後、戦争協力の意識と行動を求める「国策落語」を取り上げ続ける。ほかにも三遊亭金馬の「防空演習」、林家正蔵の「出征祝」など、何人もの落語家が国策落語を高座に上げた。
「金語楼の兵隊落語の変遷」は「金語楼は、戦争遂行が正義であったこの時代の空気の中で、国策を意識した新作落語を作っている。同時に、金語楼は『朗らかな笑い』の必要性を強く思っていた。戦争遂行のご時勢に『朗らかな笑い』とは、天皇制政府の立場と違っており、『国策戦に順応』ということと矛盾する」と書いている。
その「危険性」を最も早く示したのが憲兵隊の「お叱り」であったのではないだろうか。
確かに、最初のころ金語楼の兵隊落語は、軍隊内部が「地方」(軍隊内では外の世界をこう呼んだ)とは、置かれた環境も人間関係も全く違う異空間であり、そこでの矛盾や不合理、理不尽さを茶化す色彩が濃かった。実際に、軍隊では「上官の命令は天皇の命令」であり、上官は絶対的な存在。ビンタなどの私的制裁も日常茶飯事に行われていた。伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」には、こんな衝撃的な記述がある。
「私的制裁が人間性の蹂躙であることは確かである。しかし、それは制裁されている時点においてそうなのであって、その時期を過ぎきってしまうと、意味は違うのである。いじめられて鍛え上げられた兵隊は、耐久力があって敏感で、戦場へ出たとき、境遇に早く慣れる。ということは、死ぬ率が少なくなるのである。これだけははっきりしている。とすると、私的制裁は、兵隊を殺さないための陰の力になっていた――という言い方もできるのである」
53の演目が「禁演落語」として封印された
そして兵隊落語を含めた国策落語の内容は1937年の「盧溝橋事件」に始まる日中全面戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大するのに合わせて、一段と戦時色が濃くなっていく。逆に太平洋戦争開戦直前には、「廓もの」など53の演目が「禁演落語」として封印された。
しかし、そもそも、戦争と「笑い」は共存できるものなのだろうか。
1938年、日中戦争に従軍している日本兵を慰問するため、金語楼を団長格に落語家や漫才師、浪曲師ら芸人らによる「わらわし隊」が朝日新聞社主催で派遣される。その動きをまとめた早坂隆「『わらわし隊』の記録」は、親子をテーマにした漫才が兵隊に受けたことを例に挙げ、「戦地での演芸は、変に凝ったものよりも、素朴な笑いが好まれたようである」と書いている。
その傾向は、落語だけにとどまらない。