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金語楼の落語は「笑いの北限」だった

 長野県上田市に戦没画学生が描いた絵を集めた「無言館」がある。ここで見られるのは戦場に向かう画学生が描き残した絵だが、モチーフが親や妻ら家族、恋人と、山や海、道など、故郷の風景を描いた作品が目立つ。戦争が非日常なものなら、それに対比されるかつての日常の風景が、戦地の兵士たちが心から求めたものだったのだろう。それは、芸術や芸能が本来、平和を前提に成立していることを意味している。戦争画はテーマがそれに反しているから、概して悲壮であり、往々にして宗教画に近づく。戦場は笑いの題材にはなり得なかった。

「『わらわし隊』の記録」には、慰問で最も人気を博した漫才のミス・ワカナと一人の連隊長との交流が書かれている。のちにその連隊長は戦死。ミス・ワカナはエピソードを「部隊長とワカナ」という漫才にする。「それは客席の涙を誘う内容であった」(同書)。戦争は講談や浪曲では勇ましく悲しく描けても、落語の笑いとして扱うのは困難だろう。

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 そういう意味では、徴兵検査から入隊、除隊、内務班の生活を描いた金語楼の兵隊落語は、戦場からまだ距離を置いた世界の話であり、ぎりぎり「笑いの北限」だったのではないか。

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兵隊落語に人々は笑ったのはなぜか

 金語楼の兵隊落語に登場する二等兵は、上官にまともに応答できない。それは軍隊という組織の重圧からくる不安と恐怖を常に感じているからだ。兵隊落語はとてもそこまでは描けないし、描かない。それを笑いにするのはなかなか難しい芸だ。

 客が笑ったのは、軍隊経験のある人にとっては「こういうこともあった」として、二等兵への同情と軍隊生活への郷愁を誘われたからだろう。子どもなど、実態をあまり知らない人には、軍国日本の中で「自分もいずれは通過しなければならない社会儀礼」と受け止め、未知の世界へ興味をかき立てられたのではないか。そう考えると、かなりいびつな笑いだったといえる。

「『兵隊落語を編み出して人気を集めた』とある」柳家金語楼の死亡記事(東京朝日)

 戦争の結末は極めて悲惨で、兵隊落語も国策落語も、戦後はすっかり忘れ去られた。しかし、忘れていいことばかりではない。人間は過去からしか学べない。最近、林家三平氏が祖父・正蔵の「出征祝」を再び演じて話題になった。時代が何を求め、表現者がそれに対して何をどう作ったのか、受け手がどう受容したのか、そして、その後どうなったのか。過去の実例の意味を考えることは、現在から未来を見通すうえで必要だ。

【参考文献】
▽柳家金語楼「泣き笑い五十年」 東都書房 1959年
▽柳家金語楼「あまたれ人生」 冬樹社 1965年
▽早坂隆「『わらわし隊』の記録」 中央公論新社 2008年
▽伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」 番町書房 1969年