民法の相続分野の規定が約40年ぶりに大改正され、その多くが令和元年7月からスタートしています。ただ、「うちにそんな財産はないから対策は必要ない」「お金は遺さず使い切っていくから大丈夫」などと自分には無関係と思い込んでいる人も。相続では、プラスの資産だけでなく、マイナスの資産も相続しなくてはいけないことがあります。けれど、もし金融機関だけが知っているマイナスの資産があったとしたら、相続する人は奈落の底に突き落とされるかもしれません。

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小さな金型工場を営んでいた父の突然の死

 小林勇吉(享年77・仮名、以下同)が亡くなったのは、東京に初雪が降った2017年12月の終わりのこと。心疾患であっという間の他界でした。

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 小さな金型工場を営み、職人仲間からも慕われていた勇吉の通夜には仲間をはじめ取引先や銀行などから、多くの弔問客がやってきて、その突然の死を悼みました。

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 勇吉の父は、戦争で焼け野原になってしまった東京下町の廃墟の中で金型工場を始め、勇吉は2代目。幼い頃から職人だった父親の背中を見て育ち、中学校を卒業してすぐに父の工場で働き、その技術を叩き込まれてきました。

 高度成長期には金型の仕事も多く、たくさんの職人が働いていましたが、バブル崩壊後、経済が低迷するに伴って金型業界も不況の波に押されて行きました。さらに家電メーカーなどの下請けに組み込まれたことで納入価格を叩かれ、倒産するところも増えました。

 そんななかで、勇吉は仲間と助け合いながら一緒に頑張ってきました。ただ、「子どもたちには、この仕事は継がせたくない」が口癖でした。なぜなら、苦労が多い割には儲からないということを実感していたからです。

 勇吉には、3人の息子がいます。無理をしてまで3人の息子たちを大学に行かせたのは、社会に出てそれぞれの道を歩んで行ってほしいと思ったからです。

思い出話で通夜は遅くまでつづいた

 勇吉の通夜には、多くの人がやって来ました。

 生前、苦しい時に勇吉に勇気付けられたという人、勇吉の工場で働き、独立して一人前になって立派に会社を経営している人、仕事がなく工場が潰れそうな時に勇吉から仕事を回してもらってなんとか食いつなぎ、潰れずに済んだと涙を流す人などさまざまです。

 みんな、その場を去りがたく、思い出話で通夜は遅くまで盛り上がりました。

 そうした話を聞くたびに、3人の兄弟は父の知られざる一面を知り、誇らしく思いました。

 もし、このままだったなら、父の思い出は、3人の兄弟の心に一生輝かしいものとして残ったはずでした。