奨励会6級の試験を受けて不合格でしたが……
――そういうことがあったのですね。
桐山 私の将棋好きをみていた父親が、「何とかもう一度プロの道を」と関西本部に連れて行ってくれたんです。その時に応対に出たのが増田師匠(敏二六段)で、事情を話すと入門させてくれました。増田師匠は升田先生が大阪に来た時の飲み仲間で親しくしており、その縁もあったのでしょう。
――桐山先生が奨励会に入会されたのは1958年、小学5年生の時です。
桐山 6級の試験を受けて不合格でした。本来ならば次の機会にもう一度となりますが、当時は奨励会員が少なかったので、幹事の先生が7級で入れてくれました。
――奨励会時代の思い出などをお願いします。
桐山 入った当時は7級の実力もなかったでしょう。成績的にはまったくダメで、負けて泣いて帰った記憶もありますが、将棋が好きだったのでやめたいとは思いませんでした。
――当時、ライバル視していた方などはいらっしゃいましたか。
桐山 年が1つ上で、級も少し上の人を目標にしていましたが、その方は間もなくやめてしまいました。そのあと1年ほど、小学生としては一人でしたが、田中さん(魁秀九段)が入ってきて、彼とは年が一緒なので、練習将棋をたくさんやったことを覚えています。私は7級に1年9ヵ月、6級に1年6ヵ月いて、2つ上がるのに3年かかったような人はほとんどいないでしょう。豊島竜王・名人は奨励会の出世も早かったけど、その逆として、私がスロー記録なんじゃないかなあ。
“塾生”としてプロの将棋に接する機会が増えた
――しかし、奨励会入会から5年で初段まで到達されています。これはそれほど遅くはないと思いますが。
桐山 転機の一つが中学卒業の時期ですね。当時の将棋会館(東西いずれも)には“塾生”という、半ば会館に住み込む仕事がありました。高校には進学せず私は塾生になり、毎日プロ棋士の雑用係を務めていました。塾生になった時は2級でしたが、1年で初段、3年で四段になれました。間近でプロの将棋に接する機会が増えたのは大きかったです。
――桐山先生の奨励会時代は、いわゆる旧三段リーグの時代でした。三段が東西に分かれて半年間のリーグ戦を戦い、リーグ優勝者同士による決戦の勝者のみが四段になれるという制度でした。
桐山 東西決戦の時代は今以上に厳しいリーグともいわれますが、私自身には厳しいという意識はありませんでしたね。自分が一番若かったこともあるでしょう。リーグ1期目が5勝7敗、2期目が7勝5敗でしたが、3期目は11勝1敗で優勝できました。優勝という結果で得た自信が大きく、悲壮感はなかったです。
――東西決戦の相手が中原十六世名人でした。当時の関西奨励会で、中原十六世名人の評判はどのようなものだったのでしょうか。
桐山 情報伝達の速さが現在とは雲泥の時代ですが、大天才という評判は届いていましたし、実際に戦ってみて強いと思いました。東京の将棋会館で決戦を戦いましたが、この時、対局が始まる前はいい天気で、始まってから急に外が嵐になり、終局後にまた穏やかな天候になったことを覚えています。