通算994勝の名棋士・桐山清澄九段は、2017年に加藤一二三九段と森雞二九段が引退して以降は現役最年長だ。最後の「棋士番号2ケタ」の現役棋士でもある。
72歳となる現在でも、ジムに通い、将棋ソフトを使った研究を行うなど、日々の心身の鍛錬を欠かさない。中継された対局では、将棋ファンをうならせる指し回しが随所でみられた。
インタビューの後編では、そんな桐山九段に後進の育成と今後の抱負についてうかがった。
物静かな弟子だったという印象です
――ここからは後進の育成についてお聞きします。桐山先生には矢倉規広七段と豊島将之竜王・名人という、お二人のお弟子さんがいらっしゃいますが、弟子を取ろうと思われたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。
桐山 長年将棋界でお世話になったこともあり、棋士系統図が自分で途切れず、続けられたらなという気持ちをプロになってからはずっと持っていました。たまたま土井春左右さん(指導棋士七段)から矢倉七段を奨励会に入れたいと紹介されたのが最初です。矢倉七段が私の一番弟子で、豊島竜王・名人がその次です。他に一人いましたが、すぐやめました。
――矢倉さんと豊島さんの印象はどのようなものでしたか。
桐山 二人ともあまり変わらなかったですね。どちらも入門したのは10歳くらいのころですが、物静かな弟子だったという印象です。
――弟子をとるとき、将来はどのくらいまでになるか、というようなことを考えましたか。
桐山 二人とも四段にはなりそうだと思いましたね。それからは本人の努力次第ですが、タイトルを獲ってくれればと思っていました。
――師匠の夢を実現したのが豊島さんですが、少年時代の豊島さんは周りからどのように見られていたのでしょうか。
桐山 豊島竜王・名人は小学生で初段になる可能性もあり、周りからの期待も大きい少年でした。ただ、将来タイトルを期待された人が四段にすらなれなかった例はいくらでも見てきました。1級と三段でもたついたこともあって、前評判通りになれるかどうか、やはり四段になるまでは心配でしたね。
負けても淡々としていました
――桐山先生は、お弟子さんとの練習将棋をどのくらい指されていましたか。
桐山 矢倉七段も豊島竜王・名人も入門してから四段になるまで、月1回、私の自宅で練習将棋を指していました。そのあと奨励会で指した将棋を並べてもらい、講評していましたね。
――かなりみっちり指導されていた印象です。
桐山 私が入門したころは、師匠は弟子とは2局しか指さないと言われていましたからね。入門時に1局、もう1局はやめる時の餞別と呼ばれていた時代です。升田先生には入門時に1局だけでしたが、今思うと退会時に指してもらわなかったのがよかったのかもしれません。そして増田師匠には毎週自宅にお伺いして、そこで指してもらいました。自分もその衣鉢を継ぐという気持ちがあります。増田師匠のスタイルは当時としては珍しく、少なかったでしょうね。
――修業時代の藤井聡太七段には負けると泣いて悔しがったというエピソードがありますが、豊島さんはいかがでしたか。
桐山 内心はわかりませんが、豊島竜王・名人は負けても淡々としていました。これは昔から今まで変わりません。