タイトルはものすごく大きな目標だった
――当時のA級の雰囲気を教えてください。
桐山 当時のA級は、名人の中原さんは別格としても、特別に見られていたのが升田先生、大山先生(康晴十五世名人)、加藤さん(一二三九段)、米長さんの4名でしょうか。この中から挑戦者が出るという雰囲気で、私もそのメンバーにはなかなか勝てないという意識がありました。残る5名で降級を争うわけですが、1期目に落ちなかったので、なんとかやれるかなという気持ちです。1度残留できるとだいぶ違いますね。
――桐山先生が名人挑戦権を得たのは1980年の第39期でした。
桐山 それまでは指し分けがせいぜいだったのに、7勝2敗という好成績で中原さんに挑戦できました。数年前に王座戦決勝で中原さんに勝てたことが自信になっていました。もちろん東西決戦からの借りを返したいという気持ちもありましたが、やっぱり中原さんは強かったですね(笑)。
――初タイトル獲得は1985年の第10期棋王戦です。
桐山 それまでに挑戦失敗が3回あり、タイトルはものすごく大きな目標だったので、やっと取れたという喜びがありました。
いまは関西の第二期黄金期でしょうか
――その後、タイトルは通算4期獲得され、関西を飛び越えて将棋界を代表する棋士になった桐山先生ですが、関西の先輩にあたる重鎮の有吉道夫九段と内藤國雄九段はどのような存在だったのでしょうか。
桐山 同じ関西棋士として、目標にしていました。お二人とも充実していたので、勝っているとどうしても当たります。そこで勝たないと上に行けません。有吉さんにはほとんど勝てませんでしたが(有吉の29勝19敗)、内藤さんには相性がよかった(桐山の40勝26敗)。極端でしたね。
――有吉、内藤、桐山。そして後輩の谷川浩司九段、南芳一九段と、A級10名の半数を関西所属棋士が占め、西高東低と呼ばれた時代もありました。
桐山 すごいことですよね。棋士の人数から考えると(※棋士の総人数は大体、関東2・関西1の割合で推移している)。身近な人が活躍していると刺激を受けます。
――来期のA級も、豊島名人を筆頭に、糸谷哲郎八段、稲葉陽八段、菅井竜也八段、斎藤慎太郎八段と、関西所属の棋士が多くそろいました。
桐山 団体で精鋭が出てきて、関西の第二期黄金期でしょうか。みな若いので楽しみですね。
――A級には通算14期在籍されましたが、先生にとってA級最後の一番が第48期における大山十五世名人との一戦となりました。この大山―桐山戦は敗者が降級するという状況で、また大山十五世名人は「A級から落ちたら引退する」とも公言されていました。
桐山 引退については耳に入っていましたが、それは考えないようにしようと。ただ意識していなかったと言えばうそになりますが、勝負の世界ですし、こちらも負ければ落ちるわけです。対局に関してはやはり底力を感じたというか、ここぞというときに力を発揮された印象です。大山先生と言えば、私の棋聖就位式が大阪で行われた時、升田先生とお二人でいらして、私を含めてのスリーショットがあります。貴重な写真だと思います(※写真については、「5月3日発売の『将棋世界』6月号に載せる予定です」とのこと)。
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