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72歳現役棋士、桐山清澄九段に聞く「中原誠さんとの東西決戦で嵐になった日」のこと

72歳現役棋士、桐山清澄九段に聞く「中原誠さんとの東西決戦で嵐になった日」のこと

桐山清澄九段インタビュー #1

2020/03/31
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七段に上がった直後、大きなスランプに……

――この東西決戦で桐山先生は敗れましたが、半年後のリーグで再び優勝されました。当時は2回目の優勝を果たすと、東西決戦は行わずに昇段が決まり、その相手も四段になるという制度でした。

桐山 四段になったのは1966年の春ですが、やはり達成感はありましたね。そして本当のスタートラインに立って頑張ろうという気持ちもあり、うれしかったです。

――桐山先生は四段デビューを果たされてから、3年目に8割以上勝つ(38勝8敗)など、はたから見ると順調なプロ生活を送られたように思えますが、ご自身がプロとしてやっていけるという手応えを感じたのはいつ頃だったのでしょうか。

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桐山 四段になった直後は東西決戦もあり、どうしても中原さんのことを意識していましたね。中原さんと私は順位戦初参加が同期(第21期)ですが、1期抜けを果たした中原さんに対して、私は次点。2期目も次点でしたが、この時、「3期目は行ける」という自信を持ちました。「2度の次点に終わった」のではなく、「次点を2回取れた」という前向きな気持ちでした。

©平松市聖/文藝春秋

――その後、C級1組を1期、B級2組を3期、B級1組を2期で抜けて、27歳でA級八段に到達されます。

桐山 一番大きな転機はB級1組に上がった時ですね。七段に上がった直後、これまでない大きなスランプとなり、A級は無理ではないかという気持ちになりました。なんでもいいから将棋を指そうと、当時の奨励会員とも練習将棋を数多く指しましたが、簡単な手を見落として負けることを繰り返し、だいぶ落ち込みました。

――どうやってスランプを脱出されたのでしょうか。

桐山 その時、公式戦の間隔があいたのが大きかったのでしょう。久しぶりの公式戦も苦しい将棋でしたが、それを勝てて気持ちが変わり、A級昇級も実現できました。

©平松市聖/文藝春秋

東西対決はファンにアピールする構図として面白い

――若手時代の桐山先生がライバル視されていたのは誰でしたか?

桐山 中原さんはライバルというより目標ですね。当時は新人王戦決勝三番勝負でも戦った石田さん(和雄九段)を意識していました。他には勝浦さん(修九段)、森さん(雞二九段)、森安さん(秀光九段)です。

――今、名前を挙げられた方は森安九段が桐山先生と同じく関西所属で、他の方は関東所属でした。当時の東西対決の意識はどのようなものがあったのでしょうか?

桐山 阪田先生(三吉贈名人・王将)の時代とは違いますが、東京までわざわざ行くので、負けたくないとは思っていましたね。東西対決はファンにアピールする構図として面白いと思います。

©平松市聖/文藝春秋

――桐山先生がA級に初参加されたのは1975年の第30期ですが、その初戦が升田先生との一戦でした。

桐山 こちらはかしこまって戦うしかないですね。私が内弟子の頃は小さかったこともあり、やりにくかったと思います。その将棋は敗れましたが、戦えたのはうれしかったです。A級の前に当たったかどうかは覚えてないですね(※升田―桐山の初手合いは1971年の十段戦で、桐山勝ち。A級は3戦目で升田が初勝利。通算は桐山の3勝2敗)。

――この頃からでしょうか、桐山先生には「いぶし銀」というあだ名がつきました。このように呼ばれることに関してのご感想などはありますか。

桐山 「いぶし銀」はいいあだ名をつけてもらったと思っています。私は派手なことが好きではないので、ピッタリかなと。