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転機は38歳で出かけた外国視察旅行

 1961年、兄の家の一室を借りて「桧山タミ料理学院」を始め、幼い子どもを抱えながら無我夢中で働いた。料理家としての転機となったのは、海外渡航が自由化された1964年、38歳のときに出かけた外国視察旅行だった。江上先生について、半年かけて海外へ食の視察に出かけたのだ。

「当時の海外渡航は留学か仕事のみで、女性が半年近くも旅をするなんて夢物語のような感じでした。4~5ヶ月かけてフランス、フィンランド、南アフリカ共和国など10カ国以上を回るというもので、1ドル360円の時代。小さな家が建つほどの渡航費で、わたしの稼ぎだけではとうてい無理な額ですが、こんなチャンスを逃すわけにはいきません。料理教室の仕事で少しだけ貯めていた貯金に加えて、足りない分は兄に頭を下げて借りました。ありがたいことに両親やきょうだいが応援してくれて、息子たちも『お母さん、行ったらいいやない』と背中を押してくれました」

フィンランド航空の機内食までスケッチし、メモをとっている ©繁延あづさ

農耕民族の日本人には、やはりお米

 世界各地をまわり強く実感したのは、自分の生きる土地に合ったものを食べることの大切さだ。

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「フランス北部のノルマンディー地方では、バターを使った料理がいろいろありました。牛の放牧をして暮らす人が多いため、牛から取れる牛乳やバターを使う料理が多いのです。フランス料理にバターを使ったメニューが多いのは、ノルマンディー地方のバターを使っているからなんですね。

 イタリアのような暖かい国では、オリーブの木がよく育つのでオリーブオイルを使った料理が伝統料理になります。みな、自分の暮らす国の気候と文化と歴史の中で、どんなときもしっかり食べて力強く生き抜く知恵を磨いていることを知り、自分が日本人として生き抜く知恵をどう育てていくか考えるいい機会になりました」

世界のあちこちを訪ねて手に入れた器や調味料などが、台所の棚にずらりと並ぶ。©繁延あづさ

 麺もパンも好きというタミさんだが、毎日食べて飽きないのはやっぱりごはん。

「穀物は人の食事の基本となるもので、農耕民族の日本人には、やはりお米が合います。わたしたち日本人の体は遺伝子と結びついた米に適応し、腸が長く、ごはんをゆっくり消化して、活力が長続きするようになっているそうです」

 料理教室では、当初は高級西洋料理を教えていたが、戦後の高度経済成長の時代にまわりの料理関係者が相次いで生活習慣病などを発症したことが、食について考えるきっかけになったという。

「『命を支えるための食に関わる人がなぜ?』という疑問がわいたんです。食生活と体は結びついているので、料理を生業にする人は病気になってはいけません」

 このことがきっかけで、気候風土にあった日本の家庭料理をメインに教えるようになった。