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ポストコロナのキーワードは「遅さ」。スピードは自分で決める――宇野常寛×茂木健一郎

パンデミック下の「知的生き残り術」#2

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 新型コロナウイルスの危機の中で、情報の洪水に溺れず、自分の頭でものを考えるためにはどうしたらいいのか。評論家の宇野常寛さんと脳科学者の茂木健一郎さんの対談第2回目は、二人の共通の趣味であるランニングの話題から始まった。(全2回の2回目/前編から続く)

ランニングと脳の関係

評論家の宇野常寛さん

茂木 宇野さん、相変わらず走っていますか?

宇野 ええ。今でも時間のある日は一日10キロぐらい走りますね。ランニングは、新型コロナウイルスにも比較的感染リスクの少ない運動とされていますしね。

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 もともとタイムとか、筋力トレーニングにはまったく興味がないんです。ただ走っていると、街の成り立ちであるとか、地理みたいなものへの解像度が、電車やタクシーのような乗り物で移動する場合に比べて格段に上がる。それが楽しくて、走り続けるようになったんです。

茂木 その感覚は僕もランナーなのでよくわかります。情報機器から切り離されますから、脳がとてもリラックスしますしね。

宇野 走るってとても能動的じゃないですか。ルートもスピードも全部自分で決められる。

 比喩的に言えば、今のネット社会というのは、一定のスピードで走る乗り物に乗っている状態だと思うんです。みんながそれぞれ勝手に振る舞っているように見えて、メタレベルで見ると、集団的な空気の中で同じように踊らされている。僕が、「遅いインターネット」と言い出したのって、そのゲームからどう抜け出すかを考えたかったからなんです。要するに、個人がそれぞれ好みのスピードで走るように、情報に対する速度や距離感、進入角度を主体的に決めてはどうか、という提案なんです。

走り方は自分が決める

ランニング中の脳科学者・茂木健一郎さん

茂木 走るということには、タイムを競い合うランニング、マラソンとは違う位相が色々あるはずですよね。たとえば、比叡山延暦寺の千日回峰行って、実際に距離と時間を計算してみると、歩いてるんじゃなくて、完全に山道を走っているんですよね。だから今風に言えば、「トレイルランニング」(笑)。走ることそのものが、身体的・精神的な修行になっている。それはちょっとハードすぎる例かもしれないけれど、逆に極限までゆっくり走る「スローランニング」があったって良い。僕自身、走るという行為の中には、瞑想や座禅に近いような効用があると感じています。

宇野 「走る」ことの本質が、人間が自分の意志でスピードとルートを調整する、という走り方なら、その中に車椅子に乗って走る、ということだって含まれてくると思うんです。タイムを競うのではなく、別の価値観を基準にするのであれば、オリンピックとパラリンピックを一緒に開くことだってできるようになるかも知れません。