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わたしの「神回」

2020/05/10

平時には社会的「お荷物」だった翔子

 仮に島に敵が来ず今までの日常が続いていたとしても、あのままで翔子が自分の存在意義を感じられたかは疑問だ。望んでいたように人の役に立つのは難しかっただろう。実際、仲間を除けば、病弱な彼女に対する島民の扱いはあまり好意的なものではなかった。社会的な「お荷物」「弱者」といったところだ。本人もそれを自覚し、負い目や劣等感を抱いていた。

写真はイメージ ©︎iStock.com

 しかしだからといって、「戦い」や「特攻」や「死」が美化されることは決してない。それは台詞や制作者のコメントからも明らかだ。

 その人物が、生き残った人々の心の中でどんな位置を占めていたか。その喪失で開いた穴の大きさ。その人生が残したものが、他の人物の心をどう変化させていくのか。それらが片時も軽視されず丹念に描かれることで、死者は戦いを美化する道具でも悲劇を演出するための駒でもなく、かけがえのない存在として残り続ける。

 描くのは人々の「死に様」ではなく「生き様」。これこそがまさに、バトルアニメが数多くある中でも、「ファフナー」をとりわけ特別な作品たらしめる哲学だ。

 翔子には、華々しく散るよりも、どんなに不格好でも生き続けて欲しかった。平時は社会的「お荷物」だった翔子は、戦場に己の居場所を見出し、自爆特攻で島を守った。だが本来そんなことをせずとも「自分はここにいてもいいんだ」と思えれば、自らの存在意義を見出せれば、それが一番良かったはずだ。どうすればそう思えたのだろうか。

戦災孤児のカノンに起こった変化

 そのヒントは、カノンという少女が活躍する17話と25話にある。カノンは家族や友人を全て失った戦災孤児であり、初めは新国連人類軍所属の敵パイロットとして登場する。

 17話で「竜宮島諸共自爆せよ」という命令に何の疑問も持たず従おうとするカノンに、主人公の一騎は「お前はどこにいるんだ」と問いかける。「前はいた。今はどこにもいない。」と冷たく応答するカノン。それでも一騎は、祈りにも似た叫びで応える。

「お前はそこにいるだろう! カノン!」

写真はイメージ ©︎iStock.com

 やがて竜宮島の仲間となったカノンは、奇しくも翔子亡き後の羽佐間家の養子になる。自爆することで島を守った翔子と対照的に自爆しないことで島を守ったカノンは、翔子の残滓を常に感じつつ仲間達と絆を深めていく。

 そして25話。フェストゥムがカノンに問いかける。

「あなたはそこにいますか?」

 毎話必ず登場する、本作のキャッチフレーズだ。それに対し、彼女はこう答える。

「前は、どこにもいなかった。だが今は、ここにいる!」

 他者との人間的な心の繋がりこそが「自分」を本当の意味で存在させるのだという信念がこの2話に凝縮されている。社会的有用性という点から見れば、残念ながら人間には価値の優劣がある。しかしその尺度から離れて、個人が個人の存在を認め合うことはできるはずだ。