だからこそ、だろうか。他人より上を行くものが「年齢」しか無い人たちは、わずか1、2年差にも、ものすごく敏感に反応する。いや、数カ月、数日の差すらも、重要である。1月に生まれた私のような人は、その前の年の12月に生まれた人と友だちになるためには、「生まれた『年』はあなたより後ですが、早い時期(1月)に生まれましたので」と、かならず強調しておかなければならない。わずか数日の遅れで、その相手からずっと「下待」される関係にはなりたくないからだ……。
いまの時代において、韓国語のタメ口というものは、社会においての関係ではなく、身分の違いを表す。カースト制度のように、社会全体の固定された身分を意味するものではない。代わりに、韓国には、個人単位で勝手に決める身分階級がある。誰もが、自分自身も含めて、周りの人を一列で並べて序列を付けた身分階級である。階級といっても、生まれ持っていたものでもないので、その階級を作る責任も、各自にある。なのに、明確な基準も無く、年齢、職業、性別等に応じて、自分の勝手で決めてしまう。それは、極めて個人的な決定ではあるが、実は社会レベルで存在する偏見をそのまま反映している。タメ口は、そうやって自分で作った自分の身分社会の中で、自分よりも低い立場の人にだけ使う言葉なのだ。朝鮮時代のような公式の身分制度はもう無くなったかもしれないが、タメ口を使うことで作られる身分社会は、日常と分離することができない、生活そのものになってしまったのだ……>
日本語ができるようになって気付いた「敬語」の真の意味
一言でいうと、「対等」の概念が無くなったわけです。社会レベルで、誰かは誰かの上で、誰かは誰かの下。そういう階級を作っておかないと、自分自身のアイデンティティーが見出だせなくなってしまったのです。しかも、かなり勝手な、言い換えれば「自分の基準にまわりの人たちを巻き込む」形であるものの、誰もが位階秩序に基づいて世界を見ているから、個人レベルでその偏見に逆らったところで、どうにもなりません。
そして、その自分勝手な身分社会の身分証明書は、尊待か下待かの言語によって表れる、と。分かってはいたつもりでも、こうして書いていると、切なくなります。