1ページ目から読む
5/5ページ目

言語に優劣はない

©iStock.com

 本書にも何カ所か同じ趣旨を書いておきましたが、言語に優劣はありません。信仰にも文化にも優劣はありません。韓国人が「ハングルは世界でもっとも優秀な言語だ」と主張するのと同じく、私も「日本語が世界でもっとも優秀な言語だ」と言うつもりは毛頭ありません。そもそも、話せる言語が日本語と韓国語しかない私に、世界でもっとも優れた言語がどうとかを言う資格もありません。

 本書ではしつこいほどに日本語と韓国語を比較していますが、それは「日本語ってば世界一優秀で他の言語なんかまじゴミ」「韓国語は低劣だよねー(ヒソヒソ)」と書くためではありません。ただ、私が「ありがとうございます」だけでは何かが足りないと思っていた、その「何か」について綴るための、過程です。

 そのために、「韓国ではこうでした」という展開になっているだけで、別に日本語が韓国語より「上」で、韓国語は敬語も無い、使わない、礼儀の無い野蛮人たちの「下」な言語体系だ、敬語崩れたハングル◯ね! そう言いたいわけではありません。それでは、私も「敬の一方通行」を世に散らかしているだけの、同じ穴のムジナになってしまいます。

ADVERTISEMENT

日本語が出来るようになって本当に良かった

 外国人が日本に来て、日本の文化にハマって、友だちに「日本では~だけど、ボクの国では~だったよ。私は日本のやり方のほうが好きだな」と話すのは、よくあることです。そんなものだと思ってください。

 繰り返しになりますが、私が、私自分自身の基準で、考察という言葉を使うほど話せる言語は、日本語と韓国語だけです。英語の話も少しは出来ますが、かじった程度の知識だけで、なにより、私は英語圏の国に「住んだ」ことがありません。住んだこともない人がその国の言語を論ずるなんて、笑止億万。だから日本語と韓国語を比較することで、見えなかった何かを見出そうとしているわけです。

 もちろん、私も、漢字を廃止するなど、韓国の言語体制の運用に大いに疑問を抱いているのは事実です。でも、それはまた別のところで語るべき事案でありましょう。

 それでも、本当に「それでも」、ここで書かないといけないことがあります。私は、日本語が出来るようになって、本当に良かったと思っています。なぜなら、日本語が出来なかったなら、言語においての敬語の真の意味に、生涯、気づかなかったでしょうから。

 だから、いまでも、私は誰かに「日本語と韓国語のどちらが好きですか?」と聞かれるなら、まよわず「日本語です」と即答します。その答えは私の権利行使であり、好きには上下もありません。