今井荘の女将さんは「休憩時間が30分と短いので、食べきれるかが心配で……」と語っていたが、事前にうかがっていたメニューよりも種類が多いのは気のせいだろうか? とにかく、この叡王戦のために旅館を開け、そしてあらんかぎりのもてなしを見せてくれた今井荘には感謝しかない。自粛が明け、通常営業になった日にはぜひ将棋ファンの方々も今井荘へ遊びに行ってほしい。
20時20分、千日手が成立
対局再開。しかし局面はもう永瀬叡王がはっきり優勢に見えていた。
豊島竜王・名人も指せる手を失っているのか、不利ゆえの長考に沈んでいるように見えた。スタッフは終局に備えはじめ、控室はなんともいえない静けさに包まれていた。
「あ˝あーっ!!」
102手目、豊島竜王・名人が指した△7六との手を見て、突然中継記者が立ち上がり絶叫した。「どうしました?」と尋ねると「千日手! 千日手の筋入ってる!!」と半狂乱状態になっている。「いや、先手優勢だし相手にしないでしょ。さすがに……」と関係者一同は話していたが、そんなの知ったこっちゃないと局面は千日手の順をたどりはじめた。
「ああ~、うそお~!」
中継記者が今にも死にそうな声をあげている。
1回。2回。と金と飛車が同じ動きを繰り返す。
3回。そして4回目。
20時20分、千日手が成立した。スタッフが走って対局室へ向う。
「まさか本当にやるとは」
この時のことを中継記者氏に尋ねると「いや、千日手の筋は見えていましたけど、まさか本当にやるとは思わなかった」。記録係の熊谷俊紀二段にたずねてもほぼ同じ回答だ。ニコニコ生放送でも屋敷伸之九段が「いくら将棋が好きでもこれを千日手にするのはもったいない」と解説していた。
実は昼食休憩のとき、ドワンゴ関係者が「念のために……」と千日手が成立したときのための準備をしていた。「フラグにならないといいですねえ」などと談笑していたが、こんな漫画のように見事伏線回収されるとは思わなかった。しかし、よく考えてみれば予兆はあったのだ。
永瀬叡王が千日手マニアであることは前述したが、タイトル戦でも千日手を成立させたことがあった。前例は第87期棋聖戦と第67期王座戦、どちらも第1局だ。うち王座戦は今回と同じく相早繰り銀であった。
相早繰り銀、相うな丼のがっちり合った呼吸から千日手という展開は読むべきだっただろうか? もう何が何だかわからない。
ドタバタしながら全員で規定を確認し、対局再開は20時50分からとなった。
永瀬叡王はバナナを頬張っていた
並べた駒を片付け、一礼し豊島竜王・名人はすぐに離席した。劣勢の局面を千日手で拾えてほっとしているだろうか。指し直しがはじまるまでの時間少しでも休みたいだろう。一方の永瀬叡王はしばらく盤の前から離れず、優勢の局面をチャラにしたことを何とも思っていないような顔でバナナを頬張っていた。
「これはもう趣味だね」と、千日手の局面を並べながら青野九段は呟いた。趣味なら仕方ないだろう。これは2人のための対局なのだから。
何かが起こる叡王戦、まだまだ我々の想像を絶する展開を見せることになるとは、誰も知る由もなかった。
写真=松本渚
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