遅い春がやってきた。
将棋界にとって、名人戦、そして叡王戦の開幕は春の訪れを告げる合図だ。
ようやく花開いた若者たちによる頂上決戦、第5期叡王戦
通常4月から開催される予定だった両タイトル戦の番勝負は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて予定の変更を余儀なくされていた。
タイトル戦序列3位、叡王戦。
故・米長邦雄永世棋聖の「将棋はみんなで観たほうがおもしろい」という思いの通り、観戦者がワイワイとコメントを打ち込んだり、食事や対局風景に思いを馳せたり、今の将棋観戦のスタイルを確立し、「観る将棋ファン」増加のきっかけを作った「将棋電王戦」を源流とするビッグタイトルである。
公式タイトル戦として昇格されてからまだ3年目だが、クラウドファンディングで運営費を募ると目標額を大きく上回る1400万円以上が集まるなど、ファンから強く愛されている棋戦だ。その存在感は他の棋戦に後れを取らない。
そしていま、誰よりも長く春を待ち望み、ようやく花開いた若者二人による頂上決戦――第5期叡王戦が始まろうとしていた。
6月21日午前10時。天気は晴れ。目の前に広がる太平洋の潮騒が気持ちよく、浜辺を散策する人も見られる。
対局会場となった静岡県の今井荘は、かのレジェンド・羽生善治九段が七冠独占をかけて谷川浩司九段に挑んだ王将戦が開催されたこともある、将棋界とは縁深い高級旅館である。新型コロナウイルスの影響で休館となっていたが、叡王戦のために貸切で営業を行っていた。
タイトル保持者・永瀬拓矢叡王が駒箱を開き、ゆっくりと駒を並べていく。初防衛の舞台で並べる一文字駒の「王」。見慣れたその文字は、いま彼の目にどう映っているだろうか。盤側にはいままで彼を支え続けてきたバナナが8本並んでいる。八冠目の新しいタイトルとなった叡王戦を暗喩する本数なのだろうか?
一方、将棋界の最高位に座する豊島将之竜王・名人は、挑戦者として「玉」を並べる。わずか2日前、将棋の街・天童で名人戦第2局を戦った際には上座で駒を並べたばかりの彼は、一体どんな思いで「玉」に触れたのだろうか? 盤側には名人戦から連れてきたであろうおやつが並んでいる。チョコレートの箱の少しヨレた形から、ハードスケジュールの中で戦っている様子がうかがえる。
「定刻となりましたので、永瀬叡王の先手番ではじめてください」
すべての駒を並べ、対局開始まで静寂の中に浸る。これから始まる戦いに備えて精神を統一する。僅かに布が擦れる音、空調の音、それ以外は何も聞こえない。
「定刻となりましたので、永瀬叡王の先手番ではじめてください」
静寂を破る立会人の声。第5期叡王戦七番勝負第1局、二人の戦いが始まった。
本来ならばワイワイ検討するのだが
控室には立会人、中継ブログ担当記者が控えている。いつもなら対局を見届けにプロ棋士が何人もやってきてワイワイにぎやかに局面を検討するのなのだが、今日は昨今の情勢を鑑みて最低限の人しか来ていない。
対局開始を見届けた立会人の青野照市九段が、控室に映し出された盤面を観ながら「早繰り銀かあ。昔はよく見たんだけどねえ」と担当記者に話しかける。