「いやあ、楽しい時間がやってまいりましたね!!!!」
ほとんどやけくそのような明るい声で、モニターの中、ニコニコ生放送の聞き手・山口恵梨子女流二段が叫ぶ。
「ネタでは言ってましたけど、まさかのほんとに千日手というかたちで……。これはご褒美だったのかバチ……バチと言ってはいけませんね!」
解説の屋敷伸之九段も変なテンションだ。時刻はほぼ21時。解説・聞き手にとって「残業」と呼ばれる時間に突入していた。通常持ち時間5時間の対局は、10時に始まれば20時ごろには終盤、あるいは終局しているはずなのだが、いま画面に映し出されている局面は当然序盤である。
永瀬叡王の期待を裏切らない決断に人々のテンションは爆上がり
一方、永瀬拓矢叡王の期待を裏切らない決断に観戦している人々のテンションは爆上がりだ。それは控室の関係者も同様であった。
「千日手筋に入ってから消費時間1分しかないよ!」
印刷された棋譜用紙を見ながらスタッフが驚く。
「もう(千日手するって)決めてたんじゃん」
「好きだからやったんでしょ」
「指し足りなかったのかなあ……」
呆れのような、尊敬のような、畏怖ともいえる感情のこもったやり取り。でもまあみんなやると思ってたよね。永瀬叡王だし。
指し直し局は角換わりの進行。前局と違って早繰り銀ではないようだ。角換わりはいまもっとも指されている戦法だが、交換した角の打ち込みに常に気を配らなくてはならないため、繊細で深い研究を要求される。しかし、2人の指し手はとても速かった。
「永瀬叡王だからでしょ」と我々は受け入れるしかない
「嫌な予感がするう……」
再び中継記者から声が上がる。後手の永瀬叡王が「右玉」に構えたのである。
右玉はバランス重視のカウンター型戦法で、定跡化されていない部分が多く力勝負になる。が、問題は手番で、後手番の右玉は千日手を狙う作戦なのだ。
大事なことなのでもう一度言おう。千日手を狙う作戦なのだ。
将棋は先手番の勝率がわずかに高い。永瀬叡王もせっかく振り駒で得た先手を易々と手渡したくはなかっただろう。いやいや、ならばなぜあの優勢の局面で、先後が入れ替わる千日手を選択したのだろう?
そんなに千日手好きなの? それか今期も空気と話題を掌握するための勝負術なの? それとも純粋に「もう一局やろうぜ!」という軍曹の無邪気な将棋愛の表れなのだろうか? 謎は深まるばかりだが、「永瀬叡王だからでしょ」と我々は受け入れるしかないのである。