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隙がない……という言葉では足りない完璧で美しい決め手

 その瞬間、竜王・名人が冷静に、しかし派手に攻め込んだ。桂馬を喰いちぎり中央に拠点を作る。眠っていた飛車を目覚めさせ後手の銀に狙いを定め、叡王に△2八角と受けの一手を打ち込ませた。

 まるで前局とは人が変わったかのような厳しい攻め。指し直し局でも懲りずに千日手を求める貪欲さが、真珠色の美しい袴を着た、無表情で童顔な名人の中に眠る竜の逆鱗に触れてしまったのだろうか?

 伊豆には竜の伝説がいくつかある。それらのほとんどは人々に厄災を与え、供養されるまで猛威を振るったという。

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 一度怒らせた竜を鎮めることは困難だ。叡王は果たして、伊豆の伝説のように竜を鎮め恵みの雨を得ることはできるだろうか。しかし、大事な持ち駒を使って受けに徹しても、竜王・名人の攻めを止めることができない。ため込んだ桂馬をすべて放出し活用させ、永瀬玉を追う。助からないと評判だった角が終盤満を持して馬に成り王を追い詰め、華麗に飛車が走る。序盤中盤終盤、隙がない……という言葉では足りない完璧で美しい決め手。竜王の力を得た名人の怒りとは、かくも美しいものなのか……。

豊島竜王・名人が手にしていたのは、今期の名人戦七番勝負を記念してつくられた扇子だった

23時13分、永瀬叡王が深く頭を下げ、投了

「30秒ー」

 記録係の声が覚悟までの時間を告げる。叡王は膝の上で指を組み、がっくり首を傾けている。

「40秒ー」

 斜めになった脇息を正し、姿勢を正す。

「50秒ー、1、2、3……」

「負けました」

 23時13分、この局面で永瀬叡王が深く頭を下げ、投了した。いつものはきはきした声とはまったく違う、消え入りそうなほどかすれた声だった。

 スタッフが入室した時、両対局者がマスクも羽織も脱いで苦しそうに扇子を扇いでいた対局室は、こごえそうなほど冷えていた。

永瀬叡王が驚いた様子で声を上げた

「あの局面って相当良かったんじゃないですか?」

 終局後、感想戦で千日手局について立会人の青野照市九段が切り込んだ。控室でずっと検討していて、どうも先手勝勢だという結論を出していた。すると驚いた様子で「あ、良いんですか!?」と永瀬叡王が声を上げた。検討を進めていくと、そのうち叡王は前髪をかき上げながら

「ああ、そうなんですか……」

「ああー……。そうです、か……」

「そうか、そうでしたか……」

 としきりに呟いた。

終局後の感想戦にて、ときおり首をかしげる永瀬叡王

 あの時、自分の舞台だと喜んで食いついた千日手マニアの判断があだとなったのだ。

 大御所から質問攻めにあう叡王の様子は、まるで顧問から指導を受ける学生のようで、なんともいたたまれなく見えた。

「いやまあ……仕方ないですよね……」と豊島竜王・名人が言う。

「いい勝負くらいなのかなという想定だったんですけど、そのあと悪い手を指して……。千日手はしょうがないというか、千日手にしてもらえるかはちょっと……わからなかったというか、何かまずい手順があるかもしれないなあとは思っていました」と後のインタビューで語った通り、劣勢とされていた彼もこの局面をそれほど悪くなっているとは思っていなかったようだった。