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「師匠が亡くなったので名古屋に戻りました」

 藤井聡太七段の師匠、杉本昌隆八段は、11歳のときに板谷進の弟子になり奨励会に入会し、21歳で四段になった。

「私は19歳で大阪に出て一人暮らしをしたんです。板谷門下は皆愛知に住んで板谷先生の教室を手伝いながら修行するという感じだったんです。なのである意味、師匠に反旗を翻したんですけど、師匠に大阪に行きたいと言ったら、反対することなく行って頑張ってこいと言ってくれまして。で、四段になったら帰ってこれたらいいよと。『帰ってこい』とは言わなかったんですね。それからしばらくして師匠が亡くなってしまって……。

 もしも師匠が健在だったら名古屋に戻ったかどうかわからないですね。師匠が亡くなったので戻らなければいけないかなと。なので四段にあがって名古屋に戻りました。今は自分の選択が間違っていなかったんだなあと思っています」

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藤井七段が木村王位に挑む王位戦七番勝負第1局(7/1、2)の前日記者会見。杉本八段も出席した ©代表撮影:日本将棋連盟

「藤井が棋士になれなかったら2度と弟子は取りません」

 2014年4月、岡崎将棋まつり前夜祭の控室、杉本は沈んだ顔をしていた。杉本の弟子の竹内貴浩が三段リーグの壁に阻まれ年齢制限で退会したことで落ち込んでいたのだ。杉本にとっては一番弟子であり、藤井聡太も通った東海研修会の1期生でもあった。竹内は将棋教室の手伝いなども一所懸命こなし、人望も厚かった。

 色々と雑談していると、杉本が突然厳しい口調で「藤井が棋士になれなかったら2度と弟子は取りません」と言った。藤井はこのとき小学6年ながら奨励会有段者で才能は関東にも鳴り響いていた。

 藤井が棋士になれないなんてありえませんよ、と言おうとしたが杉本の厳しい表情を見てやめた。杉本の弟子思いは誰しも知っている。師匠はつらいのだ。

 その後、竹内と夏の大学団体戦で会った。彼は指導棋士四段として子どもたちに教え、さらに愛知県名城大学の将棋部の専属コーチになったという。「ウチの大学は強くなりましたよ」と胸をはった。そして2015年末に団体の学生王座戦、個人の学生王将戦と両方とも名城大が制した。東海地区代表の団体優勝は40年ぶりだった。

 板谷一門の普及への思いは皆がバトンを繋いでいる。

©文藝春秋

「出前とるときはこの店がいいよ」「将棋では教えることは何もないからね」

 2016年5月、岡崎将棋まつり、杉本が藤井を連れて控室に入ってきた。