史上最年少タイトル挑戦の記録を塗り替えた17歳の藤井聡太七段。藤井の師匠・杉本昌隆八段と一門でいえば“イトコ関係”にあたる“教授”勝又清和七段が、東海の棋士の系譜と師弟の物語に迫る。

棋聖戦、王位戦でタイトルに挑戦している藤井聡太七段と師匠の杉本昌隆八段 ©文藝春秋

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藤井聡太の大師匠・板谷進は「弟子の成長を何よりも喜ぶ」

 板谷四郎九段(1913-1995)は、40代で引退すると名古屋で板谷将棋教室を開き、中京棋界の発展に尽力し、多くの弟子を育成。私の師匠の石田和雄九段など5人の棋士が誕生した。やがて四郎の次男の板谷進九段(1940-1988)が親であり師匠でもある板谷四郎から引き継いでいく。板谷進は名古屋に将棋会館を建てよう、東海地区にタイトルを持ちかえろうとパワフルに活動した。東海が栄えるためには棋士を増やさなければならないと弟子をとった。内弟子からは小林健二九段が活躍する。小林は18歳の若さで四段に上がると、順位戦も順調に昇級し、20代でB級1組まで昇級した。

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1950年、大山康晴十五世名人と対局する板谷四郎九段(1913-1995)。板谷進の父親で、杉本八段の大師匠にあたる ©共同通信社

 一方、板谷はA級からB級2組までクラスを下げていたが、弟子の活躍に刺激を受けB級1組に復帰し、順位戦での師弟戦が実現した(順位戦は総当りのA級・B級1組以外は師弟での対戦はない)。

 1984年の最初の対戦は板谷勝ち。翌年の10月に2度目の対戦をする。朝10時に始まった対局は翌日午前1時26分まで戦う大熱戦。またも板谷が勝った。翌年3月の最終戦、小林は勝てば昇級、板谷は自分が勝って小林が負ければ昇級という状況だった。板谷は対局前日に神社で弟子の昇段を祈願したという(小林の手記より)。

 小林は勝ってA級昇級を決めた。板谷一門としては、板谷・石田に次ぐ3人目のA級八段だ。

 盤上では弟子でも容赦はない。だけど弟子の成長を何よりも喜ぶ、それが板谷進だった。

藤井聡太七段の新しい扇子 揮毫は「進」だった

 私自身は板谷との思い出は殆どないが、一つだけ印象に残っていることがある。

 1987年12月10日、私は加藤一二三九段対青野照市九段の竜王戦の記録係を務めた。隣の対局が板谷対石田の竜王戦だった。気安い兄弟弟子とあって午前中は2人は雑談していた。ふと石田が「やっぱ厄年ってのはあるんですかねえ?」と板谷に聞くと、「石田くん、私にそれを聞くかね。私は前厄・本厄・後厄でA級からB級2組まで落ちたんだよ。石田くんも40だからもうすぐだよね。体には気をつけないと」と苦笑しながら言った。

 翌年の2月、板谷は急逝した。47歳の若さだった。

 私が棋士になった後のこと。石田師匠と一緒に名古屋で泊まりの仕事があった。翌日、師匠が唐突に「東京に帰る前に墓参りに行こう」と言い出した。板谷の兄に連絡して車で墓地まで送ってもらい、師匠は自ら花を買ってたむけて手をあわせた。いつのことだったか詳しくは覚えていない。だが勇進居士という戒名だけが強烈に印象に残った(誠光院棋好勇進居士)。今年、藤井聡太七段が新しい扇子を作った。揮毫は「進」。もしや、これは本人にいつか聞かないと……。