終局後に代表質問者から「カド番で迎えた本局はどういうお気持ちで臨まれましたか?」という問いかけがあった。
ややあって「開き直って」という言葉が、追い詰められていた王者から発せられた。その言葉を報道控室で聞いた筆者は、十数年前のある光景を思い出していた。
世間が「自分が負けることを期待している」
将棋の第91期ヒューリック杯棋聖戦五番勝負は、第3局を迎えた時点で、挑戦者の藤井聡太七段が2連勝と、初タイトル奪取へ王手をかけていた。藤井にはタイトル獲得の最年少記録更新がかかっていたこともあり、世間のフィーバーは最高潮に達していたといえる。
逆に言えば、タイトル保持者の渡辺明棋聖にとっては厳しい状況だった。単純な星勘定だけではない。世間のほとんどが「自分が負けることを期待している」のだ。そういう空気を当事者が感じないわけがない。
ただ、渡辺は少なくとも過去に2回、世論上で自らが敵役を演じる番勝負を経験している。羽生善治九段が永世七冠達成へ「あと1局」と迫ったとき、その相手が渡辺だった。
最初は2008年の第21期竜王戦七番勝負。挑戦者の羽生がいきなり3連勝、しかも局が進めば進むほど羽生の圧勝度が増していた。誰もが羽生の竜王奪取、それにともなう永世竜王、永世七冠の誕生を信じて疑っていなかっただろう。当の渡辺本人ですら、次の第4局を「負けるにしても熱戦にしたい」と述べ、自分が勝つ構図を思い浮かべていなかったのである。
「永世七冠の瞬間を観に来たんだろう」
果たして、羽生の大記録が掛かった第4局には普段とは段違いの報道陣が現地へ集まった。現在の藤井フィーバーと比較しても遜色はなかったと思う。当然、皆が永世七冠誕生を期待しているのだ。
かくいう筆者もその一人で、大熱戦の末に渡辺が踏みとどまったあとの打ち上げ会場では「何でここにいるんですか?」と、微醺を帯びた顔の渡辺に問いかけられた。
対して「永世七冠の瞬間を観ようと思って」とよりによって本人の前でそういう返事をしてしまうのが粗忽者の自分らしい、と長年思い込んでいたのだが、その場にいた担当記者が「永世七冠の瞬間を観に来たんだろう」と混ぜっ返したことに対して私が言葉に詰まったというのが真相のようである。いずれにしろ、当時の筆者が歴史的瞬間の場に居たいという気持ちを持っていたのは事実だ。
対する「(最終第7局が行われる)天童まで無駄足を運んでください」という力強さに溢れた言葉は、それが事実になったことも含めて、今でも印象に残っている。
このシリーズは「勝った方が永世称号を得る」という将棋史上初にして、あるいは二度と起こらないかもしれない対局となった最終第7局が特にクローズアップされるが、シリーズとしての転機は、渡辺が九死に一生を得た第4局だっただろう。