同じ「津山事件報告書」の「津山事件に関する若干の考察」でも守谷芳検事は「私はこの事件の原因は都井睦雄の先天的犯罪性格にありと断じたい」と書いている。それは願望だったのだろう。国家にとって津山事件のような出来事は「非常時」の銃後の国民の在り方からみて、絶対にあってはならなかった。前線の兵士と銃後の国民双方の士気に影響するからだ。
こうした時代の風潮の中では、例えば戦後、心理学者・中村一夫が「自殺 精神病理学的考察」で提起した「睦雄が自殺を決意し、そこから道連れ的大量殺人事件に移行した」という見方など、出る余地はなかった。
戦争に“排除された”大量殺人事件
「報告書」に収録されている1938年7月14日付の津山警察署長から岡山県警察部長への「三十余人殺傷事件をめぐる事後の状況に関する件」という報告にはこう書かれている。「社会に及ぼしたる聳動の大なりしに比し、同村以外の地方においては、各種会同、湯屋、理髪店などにおける会談ほか、地方よりの入来者よりの質問などにより、当時の状況を想起して語り合う程度にして、おおむね遺忘の度を深めつつあり。けだし、支那事変拡大ないし出征将兵への関心大なる方面への転換へと認めらる」。つまり、住民が都合よく事件を忘れてくれつつあり、関心を戦争と出征兵士の方にうまく転換できているということ。事件の大きさに比べて地元紙以外の新聞報道が極めて小さかったのは、こうした圧力と新聞側の自主規制のためだったのだろう。事件は戦争の時代に排除されたといえるかもしれない。
ひるがえって、いまこの事件が起きたら、メディアの報道はどうなるか。異常な犯行と周到な計画性の狭間で対応は混乱し、容疑者と被害者は実名か匿名かなど、判断は相当分かれるはず。その間、ネットでの「フェイクニュース」やデマが蔓延する。動機や背景が十分解明されることはないだろう。
この事件の2年前の1936年、世間を騒がせたのが「阿部定事件」だった。女が愛人が絞殺し、下腹部を切り取って持ち歩き、逮捕された「猟奇事件」。「昭和維新」を叫んで青年将校らが決起し、重臣らを殺傷した日本最大のクーデター「二・二六事件」から3カ月足らず。戦後、阿部定とも対談した作家坂口安吾は雑誌に当時の印象をこう書いている。
「あのころは、ちょうど軍部が戦争熱を駆り立て、クーデターは続出し、世相アンタンたる時であったから、反動的に新聞はデカデカ書き立てる」「それは世相に対するジャーナリストの皮肉でもあり、また読者たちも、アンタンたる世相に一抹の涼気、ハケ口を喜んだ傾向のもので、内心お定さんの罪を憎んだ者など、ほとんどなかっただろう」。軍国主義が広がる社会に一種の解放感、爽快感を与えたといいえるのだろう。