知略に富んだ戦いぶりが評価され、「名将」として名高い、ドイツ国防軍のロンメル。彼はいかにして、圧倒的な戦力を誇るイギリス軍を壊滅させてきたのか。最も近くでロンメルを見守った副官の一人、ハインツ・シュミットによる戦記『ロンメル将軍 副官が見た「砂漠の狐」』(清水政二訳、角川新書)が『独ソ戦』著者の大木毅氏の監訳で復刊した。同書より、当時の指揮・統帥の様子を紹介する。
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トブルク攻略
1942年、砂漠での6月の日々は暑かった。が、夜と早朝は寒かった。6月19日から20日へかけての寒さは、ことにいままで憶えのないほどきびしかった。それとも、もしかするとたびたび私を身ぶるいさせた興奮を無理に抑えたためだったのか? 夜はしいんと静まり返り、思い出したように爆発の音がするばかり。だが数時間のうちに大混乱になるのだ。
うずくまった兵隊の群れが、エル・ドゥダの小さな谷で、木綿の毛布にくるまっていた。話し声はほとんど聞かれなかったし、話しているものも、まるで数マイルも離れている敵に聞えるのを恐れるかのように、ひそひそとささやいていた。話していることも軽々しく他愛のないことであった。戦闘をひかえて話題はいつもそうだった。
各グループ――戦闘工兵と歩兵突撃部隊――の隣りには、その日用意された火器その他の資材が置いてあった。爆薬、手榴弾、地雷探知機、鉄条切断具、火焔放射器、発煙筒、機関銃、弾薬など。
出動時間にあと数分だ。
思いに沈む数分間――ことに昨年の4月、5月に、この憎悪の的に近い要塞にむなしく攻撃をかけたさい、参加した私たちにとっては感慨深いものがあった。
私は前年ピラストリーノ=メダッワ地区にいた時よりも、はるかに気持がらくだった。これはわが軍が成功の波に乗っているように思われたためだろうか? それとも私たちが、トブルクの守りが1941年ほどに堅くないと感じていた――いや確信していたためなのであろうか? それとも私がトブルク前線について精通するようになったので、エル・ドゥダを攻撃への跳躍台として最適だと見なしているためなのであろうか?
最前線の塹壕陣地まで前進
私の思いは1941年4月のはじめに戻った。その時ロンメルはこの地区を視察していたが、私に夜間斥候隊の指揮を命じた。第5軽師団以来の歴戦の士官フント中尉と私は、それぞれ地雷探知機を操作する兵隊3名とともに、目下占領しているこの位置と前方地域を、ひそかに探ったのであった。数時間後、間違いなく道を辿って、最前線の塹壕陣地まで前進した。驚いたことに壕には敵の姿がなかった。
未明前、私たちはバルディア路と並行して、もっと北よりの方へ、ゆっくりと戻って行った。ロンメルは私の報告に大変興味を示したが、当時この周辺部になんらかの作戦行動をとる準備を行なわなかった。だがその偵察のおかげで、私はこのあたりの地勢にくわしかった。