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「固定給はしばらく一桁でした」20歳の彼女がぶっちゃけた“私がアイドルだった頃”

元夢みるアドレセンス・京佳さんインタビュー#1――アイドル戦国時代を振り返る

2020/10/10
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「君たちは今日から夢みるアドレセンスだから」

――それが夢みるアドレセンスだったと。

京佳 博報堂に6人が集められて、後にプロデューサーになる伊藤さん(博報堂DYメディアパートナーズ・伊藤公法氏(当時))から「君たちは今日から夢みるアドレセンスだから。グループ名を覚えるために、今日は『夢みるアドレセンス』と100回唱えてから眠ってね」と言われたんです。誰も「アイドルになりたい」なんて言ってないので、私たちはただただ啞然とするしかありませんでした。ただ、他のメンバーはみんな『ピチレモン』モデルだったけど、京佳だけ「捨て猫」状態だったところを拾ってもらったから「やるだけやってみよう」と。1クールで終わると思ってたけど(笑)。

――打ち切り番組のように3カ月で終わると思っていたと(笑)。夢みるアドレセンスのコンセプトについて説明は受けていたんですか?

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京佳 “下積みガールズユニット”と言われていました。だから、初期の公演ではお芝居をするコーナーもあって。セリフは少なかったけど、「女優への道も開けるかも」と思ってました。活動していくなかで、そのコンセプトは変わっていくんですけど。

 

――お披露目までに歌やダンスのレッスンがあったと思います。

京佳 2012年8月に1回目の公演があったので、7月からガチでレッスンをしたんですけど、「夏休みが潰れちゃうじゃん!」と嘆きました。しかも、めちゃくちゃスパルタの先生だったんですよ。モデルのお仕事ではそこまで叱られることはなくて、顔とスタイルだけで生きてきたメンバーなので、レッスン中に泣き出す子もいました。

――レッスン中、メンバー間でパフォーマンスの差は出ましたか?

京佳 そうですね。私は出遅れたほうだと思います。友美ちゃんは最初からセンスがあったし、一番泣いてたれいちゃんも努力で上達したけど、私はキャパが足りなくて振りが全然覚えられなかったんです。ただ、「やるからにはセンターになりたい」「歌割りもたくさんほしい」という強い気持ちだけはありました。