形見の指輪も巻き上げた
一方、佐久間としは1932年11月下旬、雑誌で蘭童が尺八の名人であることを知って琴と尺八の合奏を申し込んだのが始まりで、取り入った蘭童は「琴は旧式だからピアノを買いなさい。私が教えてあげますから」と勧めてピアノ1台を640円(同約138万円)で買わせ、家に、箱根に連れだって出掛ける間柄になり、同年暮れには家に入り込んで夫婦同様の生活を始めた。
さらに言葉巧みに「世話になっている梶原という女に1200円(同約258万円)の借金があり、これを払わないと、梶原家の養子にならなければならなくなってしまう」とだまして1200円を出させたのを手始めに、作曲のための旅行費や先妻に押さえられている著作権を取り返すため1000円(同約215万円)、「九州・小倉の郷里へ墓参に行くため」などと、次々口実をつくってとしから金を引き出し、先夫の形見としていた、1000円もするというダイヤ入り指輪も巻き上げた。その揚げ句「自分は肺病(結核)だ。同棲していては健康が保てない」と言い出して別れ話を切り出した。
1933年8月、としが東北の郷里へ先夫の墓参に行くのに同行。途中の汽車の中で泣き出し「実は自分は共産党のシンパ関係で追い掛けられている。自分が捕まれば当然妻も捕まえられる。いまのうちなら、弁護士に金をやって頼めばなんとかなるのだが」と言って驚かせた。
結局5000円(同約1046万円)を出させることになり、うち2600円(同約544万円)を受け取り、あとは分割で払わせることになった。さらに自分が検挙された時のためだと説得して、「二人は今度何の関係もない」との証書を渡した。このころ、共産党に対する弾圧は激しく、同年には作家・小林多喜二が虐殺され、シンパも厳しく追及されていたのを利用したわけだ。
梶原富士子、川崎弘子との関係を知ったとしは、それでも蘭童の甘言にだまされ、蘭童が川崎弘子の家で捕まるまで帰宅を待ちわびていた。結局、梶原富士子からは約1200円(同約258万円)、佐久間としからは1万円(同約2091万円)近くを巻き上げていたことになる。